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淮南王有女陵慧有口辯王愛陵

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淮南王有女陵慧有口辯王愛陵常多予金錢為中诇長安約結上左右

淮南王劉安には娘の陵が有り、かしこく、口先が上手だった。淮南王劉安は陵をかわいがり、常(つね)に金銭を多くあたえ、長安でさぐることにあたらせ、上(漢孝武帝劉徹)の左右に交(まじ)わった。

元朔三年上賜淮南王几杖不朝淮南王王后荼王愛幸之

元朔三年、上(漢孝武帝劉徹)は淮南王劉安にひじかけと杖(つえ)、朝しなくともよいことを賜(たま)わった。淮南王劉安の王后の荼は、淮南王劉安はこれを寵愛し、

王后生太子遷遷取王皇太后外孫修成君女為妃

王后茶が淮南太子劉遷を生み、劉遷は王皇太后の外孫の修成君(王太后の前夫金氏との娘 漢武帝の異父姉)の娘をめとって后(きさき)と為した。

王謀為反具畏太子妃知而內泄事乃與太子謀令詐弗愛三月不同席

淮南王劉安は謀(はか)って、謀反の準備をし、太子妃が知って、ひそかに事を漏(も)らずことを畏(おそ)れ、そこで淮南王太子劉遷とともに謀(はか)り、偽(いつわ)ってかわいがらず、三ヶ月間、席を同じにさせなかった。

王乃詳為怒太子閉太子使與妃同內三月太子終不近妃

淮南王劉安はそこでよそおって太子劉遷を怒(おこ)って、太子劉遷を閉めて妃(きさき)と三カ月のあいだ同じくさせたが、太子劉遷は終いまで妃(きさき)に近づかなかった。

妃求去王乃上書謝歸去之王后荼太子遷及女陵得愛幸王

妃(きさき)は去(さ)ることを求め、淮南王劉安はそこで上書してこれを帰し去らせることを謝(しゃ)した。淮南王后荼、淮南王太子劉遷、及び淮南王の娘の陵は王に寵愛を得て、

擅國權侵奪民田宅妄致系人

国権をおもうままにし、民の田宅を侵奪(しんだつ)し、みだりに人を繋(つな)いで牢に入れることをつくした。

元朔五年太子學用劍自以為人莫及聞郎中雷被巧乃召與戲

元朔五年、淮南王太子劉遷は用剣を学(まな)び、自ら人に及ぶものはいないと思い、淮南郎中の雷被が巧(たく)みだと聞き、そこで召(め)しよせてともに戯(たわむ)れた。

被一再辭讓誤中太子太子怒被恐

淮南郎中雷被は、一、二度、辞譲(じじょう)して遠慮したが、誤(あやま)って淮南王太子劉遷に中(あ)たった。淮南王太子劉遷は怒り、淮南郎中雷被は恐れた。

此時有欲從軍者輒詣京師被即願奮擊匈奴

この時、従軍を欲する者が有れば、そのたびごとに京師(長安)に詣(もう)でさせており、淮南郎中雷被はすなわち匈奴を奮撃(ふんげき)することを願った。

太子遷數惡被於王王使郎中令斥免欲以禁后被遂亡至長安上書自明

淮南王太子劉遷はたびたび淮南郎中雷被を淮南王劉安にそしり、淮南王劉安は淮南郎中令をつかわし斥免(せきめん)させ、欲するに後(あと)で牢にいれようとした。淮南郎中雷被は遂(つい)に逃げて長安に至り、上書して自ら明らかにした。

詔下其事廷尉河南河南治逮淮南太子王王后計欲無遣太子

詔(みことのり)してその事(こと)を廷尉、河南に下(くだ)し、河南は取り調べて、淮南の王太子劉遷に及(およ)び、淮南の王、王后荼は計(はか)って太子劉遷を遣(つか)わさないことを欲し、

遂發兵反計猶豫十餘日未定會有詔即訊太子

遂(つい)に兵を発して叛(そむ)こうとして計(はか)るにぐずぐずと物事をきめず、十余日しても未(ま)だ定まらなかった。この時、詔(みことのり)が有り、すなわち淮南王太子劉遷を訊問(じんもん)させた。

當是時淮南相怒壽春丞留太子逮不遣劾不敬

ちょうどこの時、淮南相は寿春(淮南の都 楚の旧都)の丞相が太子劉遷を留(とど)めて遣(つか)わさずに及んだことを怒(おこ)り、不敬(ふけい)であると弾劾(だんがい)した。

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