當是時太后弟武安侯蚡為丞相
ちょうどこの時、王太后の弟(異父弟)の武安侯田蚡が丞相に為った。
中二千石來拜謁蚡不為禮
中二千石が拝謁(はいえつ)に来たが、漢丞相武安侯田蚡は礼(れい)を為さなかった。
然黯見蚡未嘗拜常揖之
然(しか)るに漢主爵都尉汲黯が漢丞相武安侯田蚡に見(まみ)えるとき、未(いま)だ嘗(かつ)て拝礼(はいれい)したことはなく、いつも両手を胸の前であわせてお辞儀をした。
天子方招文學儒者上曰吾欲云云黯對曰
天子(漢孝武帝劉徹)はまさに文学者、儒者を招(まね)かんとし、上(漢孝武帝劉徹)は曰く、吾(われ)は云々(うんぬん)を欲する、と。漢主爵都尉汲黯は応(こた)えて曰く、
陛下內多欲而外施仁義柰何欲效唐虞之治乎
「陛下は内(うち)に欲(よく)が多くありながら、外(そと)に仁義を施(ほどこ)し、どうして唐虞の治にならおうと欲するのですか」と。
上默然怒變色而罷朝公卿皆為黯懼
上(漢孝武帝劉徹)は黙然(もくぜん)とだまりこんで、怒り、顔色を変えて、朝廷を退出した。
公卿は皆(みな)漢主爵都尉汲黯の為(ため)に懼(おそ)れた。
上退謂左右曰甚矣汲黯之戇也
上(漢孝武帝劉徹)は退出して左右に謂(い)った、曰く、「甚(はなは)だしい、汲黯のがんこさは」と。
群臣或數黯黯曰天子置公卿輔弼之臣
群臣の或(あ)る者が漢主爵都尉汲黯を責めしかり、漢主爵都尉汲黯曰く、「天子は公卿、輔弼(ほひつ 宰相、大臣)の臣を置きながら、
寧令從諛承意陷主於不義乎
どうして従いおもねって意を承(うけたまわ)らせ、主(あるじ)を不義に於いて陥(おとしい)れようか。
且已在其位縱愛身柰辱朝廷何
まさにすでにその位(主爵都尉となって九卿に列した)に在(あ)って、たとえ身(み)を惜しんでも、どうして朝廷を辱(はずかし)めたりしようか」と。
黯多病且滿三月
漢主爵都尉汲黯は病気がちで、病はまさに満三ヶ月とならんとし、
上常賜告者數終不愈
上(漢孝武帝劉徹)は常(つね)に休暇を賜(たま)わって、たびたびしたが、とうとう癒(い)えなかった。
最後病莊助為請告
病の最後に、莊助が休暇の請願をした。
上曰汲黯何如人哉
上(漢孝武帝劉徹)曰く、「汲黯はどのような人なのかな?」と。
助曰使黯任職居官無以踰人
莊助曰く、「汲黯をして職に任じ官に居(お)れば、人にまさることはありません。
然至其輔少主守城深堅招之不來
然(しか)るにその若い主(あるじ)の輔佐に至れば、城を守って堅(かた)めを深くし、これを招(まね)いても来ず、
麾之不去雖自謂賁育亦不能奪之矣
指図(さしず)しても去らず、自(みずか)らを賁(秦の武王の勇士、孟賁)、育(秦の武王の勇士、夏育)のような勇士と謂(い)ったと雖(いえど)も、またこれをとりあげることはできません」と。
上曰然古有社稷之臣
上(漢孝武帝劉徹)曰く、「然(しか)り。古(いにしえ)に社稷(しゃしょく)の臣が有って、
至如黯近之矣
汲黯の如(ごと)くに至っては、これに近い」と。
大將軍青侍中上踞廁而視之
漢大将軍衛青が中に侍(はべ)るとき、上(漢孝武帝劉徹)は厠(かわや)にかがみこんで、これを視(み)た。
丞相弘燕見上或時不冠
漢丞相公孫弘がくつろいで見(まみ)えたとき、上(漢孝武帝劉徹)は或(あ)る時は冠(かんむり)をつけなかった。
至如黯見上不冠不見也
汲黯の如(ごと)くが見(まみ)えるに至っては、上(漢孝武帝劉徹)は冠(かんむり)もつけず、見(まみ)えもしなかったのである。
上嘗坐武帳中黯前奏事上不冠
上(漢孝武帝劉徹)が嘗(かつ)て武帳の中に座(すわ)っていたとき、汲黯が事を奏(かな)でようと前に進み出たとき、上(漢孝武帝劉徹)は冠(かんむり)をつけておらず、
望見黯避帳中使人可其奏
汲黯を望(のぞ)み見て、帳(とばり)の中にしりぞき、人をしてその奏上を聞かせた。
其見敬禮如此
その見(まみ)えるに礼(れい)を敬(うやま)うはこの如(ごと)くした。
張湯方以更定律令為廷尉
張湯がまさに律令(りつりょう)を改定するを以って廷尉に為ならんとしたとき、
黯數質責湯於上前曰
漢主爵都尉汲黯はたびたび張湯を上(漢孝武帝劉徹)の前に於いて問いただし責(せ)めて、曰く、
公為正卿上不能褒先帝之功業
「公が正卿と為れば、上(うえ)は先帝の功業を褒(ほ)めることができず、
下不能抑天下之邪心安國富民
下(した)は天下の邪心(じゃしん)を抑(おさ)えて、国を安(やす)んじ、民を富ませ、
使囹圄空虛二者無一焉
牢獄(ろうごく)をしてからにさせることができず、二者(上と下)はすべてを無くすだろう。
ちょうどこの時、王太后の弟(異父弟)の武安侯田蚡が丞相に為った。
中二千石來拜謁蚡不為禮
中二千石が拝謁(はいえつ)に来たが、漢丞相武安侯田蚡は礼(れい)を為さなかった。
然黯見蚡未嘗拜常揖之
然(しか)るに漢主爵都尉汲黯が漢丞相武安侯田蚡に見(まみ)えるとき、未(いま)だ嘗(かつ)て拝礼(はいれい)したことはなく、いつも両手を胸の前であわせてお辞儀をした。
天子方招文學儒者上曰吾欲云云黯對曰
天子(漢孝武帝劉徹)はまさに文学者、儒者を招(まね)かんとし、上(漢孝武帝劉徹)は曰く、吾(われ)は云々(うんぬん)を欲する、と。漢主爵都尉汲黯は応(こた)えて曰く、
陛下內多欲而外施仁義柰何欲效唐虞之治乎
「陛下は内(うち)に欲(よく)が多くありながら、外(そと)に仁義を施(ほどこ)し、どうして唐虞の治にならおうと欲するのですか」と。
上默然怒變色而罷朝公卿皆為黯懼
上(漢孝武帝劉徹)は黙然(もくぜん)とだまりこんで、怒り、顔色を変えて、朝廷を退出した。
公卿は皆(みな)漢主爵都尉汲黯の為(ため)に懼(おそ)れた。
上退謂左右曰甚矣汲黯之戇也
上(漢孝武帝劉徹)は退出して左右に謂(い)った、曰く、「甚(はなは)だしい、汲黯のがんこさは」と。
群臣或數黯黯曰天子置公卿輔弼之臣
群臣の或(あ)る者が漢主爵都尉汲黯を責めしかり、漢主爵都尉汲黯曰く、「天子は公卿、輔弼(ほひつ 宰相、大臣)の臣を置きながら、
寧令從諛承意陷主於不義乎
どうして従いおもねって意を承(うけたまわ)らせ、主(あるじ)を不義に於いて陥(おとしい)れようか。
且已在其位縱愛身柰辱朝廷何
まさにすでにその位(主爵都尉となって九卿に列した)に在(あ)って、たとえ身(み)を惜しんでも、どうして朝廷を辱(はずかし)めたりしようか」と。
黯多病且滿三月
漢主爵都尉汲黯は病気がちで、病はまさに満三ヶ月とならんとし、
上常賜告者數終不愈
上(漢孝武帝劉徹)は常(つね)に休暇を賜(たま)わって、たびたびしたが、とうとう癒(い)えなかった。
最後病莊助為請告
病の最後に、莊助が休暇の請願をした。
上曰汲黯何如人哉
上(漢孝武帝劉徹)曰く、「汲黯はどのような人なのかな?」と。
助曰使黯任職居官無以踰人
莊助曰く、「汲黯をして職に任じ官に居(お)れば、人にまさることはありません。
然至其輔少主守城深堅招之不來
然(しか)るにその若い主(あるじ)の輔佐に至れば、城を守って堅(かた)めを深くし、これを招(まね)いても来ず、
麾之不去雖自謂賁育亦不能奪之矣
指図(さしず)しても去らず、自(みずか)らを賁(秦の武王の勇士、孟賁)、育(秦の武王の勇士、夏育)のような勇士と謂(い)ったと雖(いえど)も、またこれをとりあげることはできません」と。
上曰然古有社稷之臣
上(漢孝武帝劉徹)曰く、「然(しか)り。古(いにしえ)に社稷(しゃしょく)の臣が有って、
至如黯近之矣
汲黯の如(ごと)くに至っては、これに近い」と。
大將軍青侍中上踞廁而視之
漢大将軍衛青が中に侍(はべ)るとき、上(漢孝武帝劉徹)は厠(かわや)にかがみこんで、これを視(み)た。
丞相弘燕見上或時不冠
漢丞相公孫弘がくつろいで見(まみ)えたとき、上(漢孝武帝劉徹)は或(あ)る時は冠(かんむり)をつけなかった。
至如黯見上不冠不見也
汲黯の如(ごと)くが見(まみ)えるに至っては、上(漢孝武帝劉徹)は冠(かんむり)もつけず、見(まみ)えもしなかったのである。
上嘗坐武帳中黯前奏事上不冠
上(漢孝武帝劉徹)が嘗(かつ)て武帳の中に座(すわ)っていたとき、汲黯が事を奏(かな)でようと前に進み出たとき、上(漢孝武帝劉徹)は冠(かんむり)をつけておらず、
望見黯避帳中使人可其奏
汲黯を望(のぞ)み見て、帳(とばり)の中にしりぞき、人をしてその奏上を聞かせた。
其見敬禮如此
その見(まみ)えるに礼(れい)を敬(うやま)うはこの如(ごと)くした。
張湯方以更定律令為廷尉
張湯がまさに律令(りつりょう)を改定するを以って廷尉に為ならんとしたとき、
黯數質責湯於上前曰
漢主爵都尉汲黯はたびたび張湯を上(漢孝武帝劉徹)の前に於いて問いただし責(せ)めて、曰く、
公為正卿上不能褒先帝之功業
「公が正卿と為れば、上(うえ)は先帝の功業を褒(ほ)めることができず、
下不能抑天下之邪心安國富民
下(した)は天下の邪心(じゃしん)を抑(おさ)えて、国を安(やす)んじ、民を富ませ、
使囹圄空虛二者無一焉
牢獄(ろうごく)をしてからにさせることができず、二者(上と下)はすべてを無くすだろう。