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未嘗名吏與官屬言若恐傷之

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未嘗名吏與官屬言若恐傷之

未(いま)だ嘗(かつ)て役人をいましめた(名(めい)=命(めい)?)ことがなく、官属とともに言って、これを傷つけることを恐れるがごとくした。

聞人之善言進之上唯恐後

人の善言を聞くと、これを上(漢孝武帝劉徹)に進めて、唯(ただ)後(おく)れることを恐れるのみ。

山東士諸公以此翕然稱鄭莊

山東の士、諸(もろもろ)の公はこれを以って翕然(きゅうぜん)と集まって漢大農令鄭荘を称(たた)えた。

鄭莊使視決河自請治行五日

漢大農令鄭荘は河の決壊を視(み)させ、自ら、五日間治めに行くことを請(こ)うた。

上曰吾聞鄭莊行千里不齎糧

上(漢孝武帝劉徹)曰く、「吾(われ)は聞く、鄭荘が行っても、千里は食糧をもたらさない、と。

請治行者何也然鄭莊在朝

治行を請うはどうしてなのか?」と。然(しか)るに漢太史鄭荘は朝廷に在(あ)って、

常趨和承意不敢甚引當否

常(つね)に小走りして、意(い)に和(わ)して承(うけたまわ)り、敢(あ)えて当否(とうひ)を甚(はなは)だしく引かなかった。

及晚節漢征匈奴招四夷

晩年(ばんねん)に及んで、漢が匈奴を征伐し、四方の異民族を招(まね)いた。

天下費多財用益匱

天下は費(ついや)すこと多く、財用(資本)はますますとぼしくなっていった。

莊任人賓客為大農僦人多逋負

漢大農令鄭荘が任子(にんし)した人の賓客が大農僦人と為り、滞納(たいのう)している税が多かった。

司馬安為淮陽太守發其事

司馬安が淮陽太守と為って、その事を発(あば)き、

莊以此陷罪贖為庶人

漢大農令鄭荘はこれを以って罪に陥(おとしい)れられ、罪を購(あがな)って庶人と為った。

頃之守長史

しばらくして守長史となった。

上以為老以莊為汝南太守

上(漢孝武帝劉徹)は老いていると為すを以って、鄭荘を以って汝南太守と為さしめた。

數歲以官卒

数年して官を以って亡くなった。

鄭莊汲黯始列為九卿廉內行修

鄭荘、汲黯は以前、九卿に列したとき、行いが清く、内(うち)にみぞぎを行った。

此兩人中廢家貧賓客益落

これ二人が途中で廃されると、家は貧しくなって、賓客は益々(ますます)落ちぶれた。

及居郡卒後家無餘貲財

郡に居するに及んで、亡くなった後に、家には残った貲財(しざい たから)は無かった。

莊兄弟子孫以莊故至二千石六七人焉

鄭荘の兄弟、子孫は鄭荘の故(ゆえ)を以って、二千石に至ったものが六、七人いた。

太史公曰夫以汲鄭之賢

太史公曰く、「それ、汲黯、鄭荘の賢(かしこ)さを以って、

有勢則賓客十倍無勢則否況眾人乎

勢いが有れば、賓客は十倍に、勢いが無くなればそうではなくなった、況(いわん)や衆人においてはなおさらのことだ。

下邽翟公有言始翟公為廷尉賓客闐門

下邽の翟公に言(げん)が有る、以前、翟公が廷尉に為ったとき、賓客が門に満ちた。

及廢門外可設雀羅

廃されるに及んで、門の外には雀(すずめ)の網(あみ)を設(もう)けることができた。

翟公復為廷尉賓客欲往翟公乃人署其門曰

翟公がふたたび廷尉に為ると、賓客が往くことを欲し、翟公はそこで人にその門に記させて曰く、

一死一生乃知交情

『一死一生して、すなわち交情を知る。

一貧一富乃知交態

一貧一富して、すなわち交態を知る。

一貴一賤交情乃見

一貴一賤して、交情がすなわち現(あらわ)れる』と。

汲鄭亦云悲夫

汲黯、鄭荘(鄭当時)もまたしかじかである。悲(かな)しいかな」と。

今日で史記 汲鄭列伝は終わりです。明日からは史記 儒林列伝に入ります。

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