太史公曰余讀功令至於廣學官之路未嘗不廢書而嘆也
太史公曰く、「わたしは功令を読み、学官の路(みち)をきたえて功(こう)する(広(こう)=功(こう?)に至ると、未(いま)だ嘗(かつ)て書物を閉じて嘆息(たんそく)しないことはなかった。
曰嗟乎夫周室衰而關雎作幽微而禮樂壞
曰く、「ああ、それ周室は衰(おとろ)えて関雎(かんしょ 詩経の最初の詩 周の文王ときさきの夫婦の徳を表したもの)が弱まり(作(さく)=削(さく)?)、周幽王姫宮涅、周王姫胡の時に衰退し礼楽が壊(こわ)れ、
諸侯恣行政由彊國故孔子閔王路廢而邪道興
諸侯は勝手きままに行い、政治は強国に由(よ)った。故(ゆえ)に孔子は、王の路(みち)が廃されて邪道(じゃどう)が興(おこ)ったことをうれえて、
於是論次詩書修起禮樂
ここに於いて詩経、書経を順次(じゅんじ)論(ろん)じ、礼経、楽経を起こし修(おさ)めた。
適齊聞韶三月不知肉味
斉におもむき韶(舜帝が作ったといわれる音楽の名)を聞き、三ヶ月間、肉の味(あじ)をわすれた。
自衛返魯然後樂正雅頌各得其所
衛から魯に返(かえ)り、然(しか)る後に音楽は正され雅(宮廷の格調正しい歌)、頌(祖先をたたえる歌)はおのおのそのところを得た。
世以混濁莫能用是以仲尼干七十餘君無所遇
世の中が混濁(こんだく)するを以って用いられることができず、ここに、仲尼(孔子)を以って七十余りの君に待遇されるところ無く、
曰茍有用我者期月而已矣
曰く、いやしくも我(われ)を用いる者が有れば、丸一年のみあればよい、と。
西狩獲麟曰吾道窮矣
西に狩(か)りして麒麟(きりん)を獲(と)ったとき、曰く、吾(われ)の道(君に用いられること)はゆきづまった、と。
故因史記作春秋以當王法
故(ゆえ)に歴史書に因(よ)りて春秋経を作り、王法に当(あ)てるを以ってし、
其辭微而指博後世學者多錄焉
その言葉は奥深くしておもむきは広く、後世の学者の多くが書き写(うつ)した。
太史公曰く、「わたしは功令を読み、学官の路(みち)をきたえて功(こう)する(広(こう)=功(こう?)に至ると、未(いま)だ嘗(かつ)て書物を閉じて嘆息(たんそく)しないことはなかった。
曰嗟乎夫周室衰而關雎作幽微而禮樂壞
曰く、「ああ、それ周室は衰(おとろ)えて関雎(かんしょ 詩経の最初の詩 周の文王ときさきの夫婦の徳を表したもの)が弱まり(作(さく)=削(さく)?)、周幽王姫宮涅、周王姫胡の時に衰退し礼楽が壊(こわ)れ、
諸侯恣行政由彊國故孔子閔王路廢而邪道興
諸侯は勝手きままに行い、政治は強国に由(よ)った。故(ゆえ)に孔子は、王の路(みち)が廃されて邪道(じゃどう)が興(おこ)ったことをうれえて、
於是論次詩書修起禮樂
ここに於いて詩経、書経を順次(じゅんじ)論(ろん)じ、礼経、楽経を起こし修(おさ)めた。
適齊聞韶三月不知肉味
斉におもむき韶(舜帝が作ったといわれる音楽の名)を聞き、三ヶ月間、肉の味(あじ)をわすれた。
自衛返魯然後樂正雅頌各得其所
衛から魯に返(かえ)り、然(しか)る後に音楽は正され雅(宮廷の格調正しい歌)、頌(祖先をたたえる歌)はおのおのそのところを得た。
世以混濁莫能用是以仲尼干七十餘君無所遇
世の中が混濁(こんだく)するを以って用いられることができず、ここに、仲尼(孔子)を以って七十余りの君に待遇されるところ無く、
曰茍有用我者期月而已矣
曰く、いやしくも我(われ)を用いる者が有れば、丸一年のみあればよい、と。
西狩獲麟曰吾道窮矣
西に狩(か)りして麒麟(きりん)を獲(と)ったとき、曰く、吾(われ)の道(君に用いられること)はゆきづまった、と。
故因史記作春秋以當王法
故(ゆえ)に歴史書に因(よ)りて春秋経を作り、王法に当(あ)てるを以ってし、
其辭微而指博後世學者多錄焉
その言葉は奥深くしておもむきは広く、後世の学者の多くが書き写(うつ)した。