自孔子卒後七十子之徒散游諸侯
孔子が亡くなってより後、七十人の弟子の仲間は諸侯を巡(めぐ)りに散(ち)った。
大者為師傅卿相小者友教士大夫或隱而不見
大者は師、傅、卿、相と為り、小者は士、大夫に教え友となり、或(ある)ものは、隠棲して現(あらわ)れなかった。
故子路居衛子張居陳澹臺子羽居楚
故(ゆえ)に子路は衛に居し、子張は陳に居し、澹臺子羽は楚に居し、
子夏居西河子貢終於齊
子夏は西河に居し、子貢は斉で一生を終えた。
如田子方段干木吳起禽滑釐之屬
田子方、段干木、呉起、禽滑釐の仲間の如(ごと)くは、
皆受業於子夏之倫為王者師
皆(みな)子夏と同類で学問をさずかり、王者の師と為った。
是時獨魏文侯好學
この時、ただ魏文侯魏斯だけが学問を好んだ。
后陵遲以至于始皇天下并爭於戰國
後、だんだとおとろえてゆき、秦始皇帝に至るを以ってして、天下は戦国に於いて並び争った。
懦術既絀焉然齊魯之學者獨不廢也
儒術はすでにしりぞけられ、然るに斉、魯の間では、学者がただ廃さないだけであった。
於威宣之際孟子荀卿之列
斉威王田因斉、斉宣王田辟彊のあいだに於いて、孟子、荀卿の仲間が、
咸遵夫子之業而潤色之以學顯於當世
あまねく孔子の学問にのっとって、これを潤色(じゅんしょく)し、学ぶを以って当世に於いて顕(あきら)かにした。
及至秦之季世焚詩書阬術士六藝從此缺焉
秦の末世に至るに及んで、詩、書を焼き、儒術士を穴埋めにし、六芸(六経?)はこれよりすたれた。
陳涉之王也而魯諸儒持孔氏之禮器往歸陳王
陳渉が王になると、しこうして、魯の諸(もろもろ)の儒者は孔子の礼器を持って、陳王(張楚王陳渉)に帰属(きぞく)しに往(い)った。
於是孔甲為陳涉博士卒與涉俱死
ここに於いて孔甲は陳渉の博士と為り、とうとう陳渉とともに死んだ。
陳涉起匹夫驅瓦合適戍旬月以王楚
陳渉は匹夫(ひっぷ)より身を起こし、駆(か)けて国境警備におもむいた人々を瓦(かわら)のように合(あ)わせ、十ヶ月で楚で王になるを以ってした。
不滿半歲竟滅亡其事至微淺
半年も満たないうちにとうとう滅亡し、その事は微浅に至ったが、
然而縉紳先生之徒負孔子禮器往委質為臣者何也
然(しか)るに官位身分の高い先生の仲間が孔子の礼器を背負(せお)って身を委(ゆだ)ねて臣下に為りに往(い)ったのは、どうしてなのか?
以秦焚其業積怨而發憤于陳王也
秦がその学問を焼くを以ってして、怨みを積(つ)んで陳王(張楚王陳渉)のもとで発憤(はっぷん)したのである。
孔子が亡くなってより後、七十人の弟子の仲間は諸侯を巡(めぐ)りに散(ち)った。
大者為師傅卿相小者友教士大夫或隱而不見
大者は師、傅、卿、相と為り、小者は士、大夫に教え友となり、或(ある)ものは、隠棲して現(あらわ)れなかった。
故子路居衛子張居陳澹臺子羽居楚
故(ゆえ)に子路は衛に居し、子張は陳に居し、澹臺子羽は楚に居し、
子夏居西河子貢終於齊
子夏は西河に居し、子貢は斉で一生を終えた。
如田子方段干木吳起禽滑釐之屬
田子方、段干木、呉起、禽滑釐の仲間の如(ごと)くは、
皆受業於子夏之倫為王者師
皆(みな)子夏と同類で学問をさずかり、王者の師と為った。
是時獨魏文侯好學
この時、ただ魏文侯魏斯だけが学問を好んだ。
后陵遲以至于始皇天下并爭於戰國
後、だんだとおとろえてゆき、秦始皇帝に至るを以ってして、天下は戦国に於いて並び争った。
懦術既絀焉然齊魯之學者獨不廢也
儒術はすでにしりぞけられ、然るに斉、魯の間では、学者がただ廃さないだけであった。
於威宣之際孟子荀卿之列
斉威王田因斉、斉宣王田辟彊のあいだに於いて、孟子、荀卿の仲間が、
咸遵夫子之業而潤色之以學顯於當世
あまねく孔子の学問にのっとって、これを潤色(じゅんしょく)し、学ぶを以って当世に於いて顕(あきら)かにした。
及至秦之季世焚詩書阬術士六藝從此缺焉
秦の末世に至るに及んで、詩、書を焼き、儒術士を穴埋めにし、六芸(六経?)はこれよりすたれた。
陳涉之王也而魯諸儒持孔氏之禮器往歸陳王
陳渉が王になると、しこうして、魯の諸(もろもろ)の儒者は孔子の礼器を持って、陳王(張楚王陳渉)に帰属(きぞく)しに往(い)った。
於是孔甲為陳涉博士卒與涉俱死
ここに於いて孔甲は陳渉の博士と為り、とうとう陳渉とともに死んだ。
陳涉起匹夫驅瓦合適戍旬月以王楚
陳渉は匹夫(ひっぷ)より身を起こし、駆(か)けて国境警備におもむいた人々を瓦(かわら)のように合(あ)わせ、十ヶ月で楚で王になるを以ってした。
不滿半歲竟滅亡其事至微淺
半年も満たないうちにとうとう滅亡し、その事は微浅に至ったが、
然而縉紳先生之徒負孔子禮器往委質為臣者何也
然(しか)るに官位身分の高い先生の仲間が孔子の礼器を背負(せお)って身を委(ゆだ)ねて臣下に為りに往(い)ったのは、どうしてなのか?
以秦焚其業積怨而發憤于陳王也
秦がその学問を焼くを以ってして、怨みを積(つ)んで陳王(張楚王陳渉)のもとで発憤(はっぷん)したのである。