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及高皇帝誅項籍

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及高皇帝誅項籍舉兵圍魯

漢高皇帝劉邦が項籍(項羽)を誅(ちゅう)するに及んで、兵を挙げ魯を包囲したとき、

魯中諸儒尚講誦習禮樂弦歌之音不絕

魯中のもろもろの儒者は尚(なお)礼楽を繰り返しそらんじて講(こう)じており、弦歌の音は絶(た)えておらず、

豈非聖人之遺化好禮樂之國哉

どうして(魯は)聖人の残した教化で、礼楽を好む国で非(あら)ざるかな。

故孔子在陳曰歸與歸與

故(ゆえ)に孔子は陳に在(あ)って曰く、「帰ろうか、帰ろうか、

吾黨之小子狂簡斐然成章不知所以裁之

吾(われ)のなかまの弟子たちは理想が高すぎて、斐然(ひぜん)と立派に文章を成(な)すが、これを裁(さば)くを以ってするところを知らない」と。

夫齊魯之於文學自古以來其天性也

それ、斉、魯の間は文学に於いて、古(いにしえ)より以来、その天性(てんせい)でなのである。

故漢興然後諸儒始得修其經藝

故(ゆえ)漢が興(おこ)り、然(しか)る後、諸(もろもろ)の儒者はその経芸を修(おさ)めることができ始(はじ)め、

講習大射鄉飲之禮

大射、郷飲の礼をくりかえし講(こう)じたのである。

叔孫通作漢禮儀因為太常

叔孫通は漢の礼儀を作り、因(よ)りて太常と為った。

諸生弟子共定者咸為選首於是喟然嘆興於學

諸(もろもろ)の弟子の儒学者がともに定め、あまねく頭(かしら)に選ばれ、ここに於いて喟然(きぜん)とためいきをついて学問が盛んになったことを称賛(しょうさん)した。

然尚有干戈平定四海亦未暇遑庠序之事也

然(しか)るに尚(なお)四海を平定する戦いが有り、また、未(ま)だ学校の事をするいとまがなかったのである。

孝惠呂后時公卿皆武力有功之臣

漢孝恵帝劉盈、呂后(漢高后呂雉)の時、公卿は皆(みな)武力で功の有った臣下で、

孝文時頗徵用然孝文帝本好刑名之言

漢孝文帝劉恒の時、頗(すこぶ)る徴用(ちょうよう)されて、然(しか)るに漢孝文帝劉恒はもともと刑名(形名)の言(げん)を好んでいた。

及至孝景不任儒者而竇太后又好黃老之術

漢孝景帝劉啓に至り、儒術に任(まか)せなかったのは、しこうして、竇太后もまた黄老の術を好んでいたからで、

故諸博士具官待問未有進者

故(ゆえ)に諸(もろもろ)の博士は官職を具(つぶ)さにして問いを待(ま)ったが、未(いま)だ進み出る者はいなかったのである。

及今上即位趙綰王臧之屬明儒學

今上(漢孝武帝劉徹)が即位するに及んで、趙綰、王臧の仲間が儒学を明らかにし、

而上亦鄉之於是招方正賢良文學之士

しこうして、上(漢孝武帝劉徹)もまたこれに向かい、ここに於いて方正(ほうせい)賢良(けんりょう)の文学の士が招(まね)かれた。

自是之后言詩於魯則申培公

これの後より、魯に於いて詩を言えば、申培公、

於齊則轅固生於燕則韓太傅

斉に於いて言えば轅固先生、燕に於いて言えば、韓太傅。

言尚書自濟南伏生言禮自魯高堂生

尚書を言えば自(おの)ずから、済南の伏先生、礼を言えば自(おの)ずから魯の高堂先生。

言易自菑川田生

易(えき)を言えば、自(おの)ずから、菑川の田先生。

言春秋於齊魯自胡毋生於趙自董仲舒

斉、魯に於いて春秋を言えば自(おの)ずから胡毋先生、趙に於いては自(おの)ずから董仲舒。

及竇太后崩武安侯田蚡為丞相

竇太后が崩ずるに及んで、武安侯田蚡が漢丞相に為り、

絀黃老刑名百家之言

黄老、刑名、百家の言をしりぞけ、

延文學儒者數百人

文学の儒者数百人を延(の)べた。

而公孫弘以春秋白衣為天子三公封以平津侯

しこうして公孫弘は春秋を学ぶ平民を以って、天子の三公と為り、封ぜられるに平津侯を以ってした。

天下之學士靡然鄉風矣

天下の学士は靡然(びぜん)と風に向かってなびき従(したが)ったのである。

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