而請諸不稱者罰臣謹案詔書律令下者
しこうして、諸(もろもろ)の称(かな)わなかった者の罰を請うのです。わたしは謹(つつし)んで、詔(みことのり)を案(あん)じて、律令を書いて下(くだ)すものは、
明天人分際通古今之義文章爾雅
天人の分際(ぶんざい)を明らかにし、古今(ここん)の義を通(かよ)わせ、文章は正しく美しく、
訓辭深厚恩施甚美小吏淺聞
訓辞(くんじ)は深く厚(あつ)く、恩施は甚(はなは)だ美しいものです。わたしは浅聞(せんぶん)で、
不能究宣無以明布諭下
宣布をきわめることができず、明布を以って諭(さと)し下(くだ)すことはありませんが、
治禮次治掌故以文學禮義為官遷留滯
礼の順次を治(おさ)め、掌故(しきたり)を治(おさ)め、文学、礼義を以って官をつくり、留滯(りゅうたい)を遷(うつ)ししりぞけます。
請選擇其秩比二百石以上及吏百石通一藝以上
その秩禄が二百石以上に比(ひ)する者、及び百石の役人で一芸以上に通じる者を選択(せんたく)して、
補左右內史大行卒史比百石已下補郡太守卒史
左右内史、大行卒史に補(おぎな)い、百石以下に比(ひ)する者は、郡太守の卒史に補(おぎな)い、
皆各二人邊郡一人
皆(みな)おのおの二人づつで、辺境の郡は一人補(おぎな)うことを請(こ)う。
先用誦多者若不足乃擇掌故補中二千石屬
先(さき)んじて用いられてほめたたえられた者は、もし不足すれば、すなわち掌故(礼楽の規則や慣例をあつかった役)を択(えら)んで、中二千石の属(ぞく)に補(おぎな)い、
文學掌故補郡屬備員
文學、掌故を択(えら)んで郡属の備員に補(おぎな)います。
請著功令佗如律令制曰可
功令を著(あらわ)して、律令の如(ごと)くに加えることを請(こ)う』と。制して曰く、『よろしい』と。
自此以來則公卿大夫士吏斌斌多文學之士矣
これより以来(いらい)、すなわち公卿、大夫、士、吏は斌斌(ひんひん)と調和して文学の士を多(た)としたのだ」と。
申公者魯人也
申公という者は魯の人である。
高祖過魯申公以弟子從師入見高祖于魯南宮
漢高祖劉邦が魯に立寄ったとき、申公は弟子を以って師(先生)に従(したが)い、漢高祖劉邦に魯南宮において入見した。
呂太后時申公游學長安與劉郢同師
呂太后の時、申公は長安に遊学し、劉郢と同じ師(先生)に学んだ。
已而郢為楚王令申公傅其太子戊
しばらくして劉郢が楚王に為り、申公に令(れい)してその太子劉戊を教育させた。
戊不好學疾申公及王郢卒戊立為楚王胥靡申公
楚太子劉戊は学問を好まず、申公をにくんだ。楚王劉郢が亡くなるに及んで、楚太子劉戊が立って楚王に為り、申公を胥靡(しょび 何もしないこと)した。
申公恥之歸魯退居家教終身不出門
申公はこれを恥(は)じ、魯に帰り、隠居して教え、身を終えるまで門を出ず、
復謝絕賓客獨王命召之乃往
賓客を謝絶(しゃぜつ)してかえし、ただ王命がこれを召せばすなわち往(ゆ)くのみであった。
弟子自遠方至受業者百餘人
弟子の遠方(えんぽう)より学業をさずかりに至った者は百余人。
申公獨以詩經為訓以教無傳(疑)疑者則闕不傳
申公はただ詩経を以って訓(くん)じ教えるを以ってし、うたがわしいものは伝えること無く、疑わしい者はすなわち除(のぞ)いて伝えなかった。
蘭陵王臧既受詩以事孝景帝為太子少傅免去
蘭陵の王臧がすでに詩経をまなび、漢孝景帝劉啓に仕(つか)えるを以って太子少傅と為ったが、免ぜられて去った。
今上初即位臧乃上書宿衛上
今上(漢孝武帝劉徹)が即位したばかりの時、王臧はそこで宿衛上で上書し、
累遷一歲中為郎中令
遷(うつ)り進んで、一年以内に郎中令い為った。
及代趙綰亦嘗受詩申公綰為御史大夫
趙綰もまた嘗(かつ)て申公に詩経を学んだことがあり、代(か)えるに及んで、趙綰は御史大夫に為った。
綰臧請天子欲立明堂以朝諸侯
漢御史大夫趙綰、漢郎中令王臧は天子に、明堂を立てて諸侯に朝させるを以ってすることを欲して、請(こ)うた。
不能就其事乃言師申公
その事に就(つ)くことができず、そこで、師(先生)の申公を言った。
於是天子使使束帛加璧安車駟馬迎申公
ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)は使者をつかわし、束帛(そくはく たばねた絹の進物)に璧(へき)を加え、安車(老人、女子用のすわって乗る車)の四頭立て馬車で申公を迎(むか)えさせた。
弟子二人乘軺傳從
弟子二人が軺車(ようしゃ 小さい車)の伝車に乗り継いで従(したが)った。
至見天子天子問治亂之事
至り、天子(漢孝武帝劉徹)に見(まみ)えた。天子(漢孝武帝劉徹)は治乱の事を問うた。
申公時已八十餘老對曰
申公は時にすでに八十余歳で老(お)いており、応(こた)えて曰く、
為治者不在多言顧力行何如耳
「治(ち)を為す者は多言に在(あ)らず、力行の何如(いかん)を顧(かえり)みるのみ」と。
是時天子方好文詞見申公對默然
ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)はまさに文詞を好(この)んでおり、申公の応(こた)えを見て、黙然(もくぜん)とだまりこんだ。
然已招致則以為太中大夫舍魯邸議明堂事
然(しか)るにすでに招致(しょうち)して、すなわち太中大夫と為すを以って、魯邸に住まわせて、
明堂の事を議(ぎ)させた。
太皇竇太后好老子言不說儒術
太皇竇太后(武帝の祖母)は老子の言を好み、儒術をよろこばなかった。
得趙綰王臧之過以讓上上因廢明堂事
漢御史大夫趙綰、漢郎中令王臧の過(あやま)ちを得て、上(漢孝武帝劉徹)に責め叱るを以ってし、
上(漢孝武帝劉徹)は因(よ)りて明堂の事を廃止した。
盡下趙綰王臧吏後皆自殺
ことごとく漢御史大夫趙綰、漢郎中令王臧を役人に下(くだ)して、後に皆(みな)自殺した。
申公亦疾免以歸數年卒
漢太中大夫申公もまたにくまれ免(めん)ぜられて帰るを以ってし、数年して亡くなった。
弟子為博士者十餘人孔安國至臨淮太守
弟子の博士と為った者は十余人、孔安国は臨淮太守に至り、
周霸至膠西內史夏至城陽內史
周霸は膠西内史に至り、夏は城陽内史に至り、
碭魯賜至東海太守蘭陵繆生至長沙內史
碭魯は東海太守に至るを賜(たま)わり、蘭陵の繆生は長沙内史に至り、
徐偃為膠西中尉鄒人闕門慶忌為膠東內史
徐偃は膠西中尉に為り、鄒人の闕門の慶忌は膠東内史に為った。
其治官民皆有廉節稱其好學
その官、民を治(おさ)めるは皆(みな)廉節が有り、その好学を称(たた)えられた。
學官弟子行雖不備而至於大夫郎中掌故以百數
学官の弟子は行いが備(そな)わっていないと雖(いえど)も、しこうして大夫、郎中、掌故(礼楽の規則や慣例をあつかった役)に至るものは百を以って数えた。
言詩雖殊多本於申公
詩経を言うに異なると雖(いえど)も、多くが申公を本(もと)にした。
しこうして、諸(もろもろ)の称(かな)わなかった者の罰を請うのです。わたしは謹(つつし)んで、詔(みことのり)を案(あん)じて、律令を書いて下(くだ)すものは、
明天人分際通古今之義文章爾雅
天人の分際(ぶんざい)を明らかにし、古今(ここん)の義を通(かよ)わせ、文章は正しく美しく、
訓辭深厚恩施甚美小吏淺聞
訓辞(くんじ)は深く厚(あつ)く、恩施は甚(はなは)だ美しいものです。わたしは浅聞(せんぶん)で、
不能究宣無以明布諭下
宣布をきわめることができず、明布を以って諭(さと)し下(くだ)すことはありませんが、
治禮次治掌故以文學禮義為官遷留滯
礼の順次を治(おさ)め、掌故(しきたり)を治(おさ)め、文学、礼義を以って官をつくり、留滯(りゅうたい)を遷(うつ)ししりぞけます。
請選擇其秩比二百石以上及吏百石通一藝以上
その秩禄が二百石以上に比(ひ)する者、及び百石の役人で一芸以上に通じる者を選択(せんたく)して、
補左右內史大行卒史比百石已下補郡太守卒史
左右内史、大行卒史に補(おぎな)い、百石以下に比(ひ)する者は、郡太守の卒史に補(おぎな)い、
皆各二人邊郡一人
皆(みな)おのおの二人づつで、辺境の郡は一人補(おぎな)うことを請(こ)う。
先用誦多者若不足乃擇掌故補中二千石屬
先(さき)んじて用いられてほめたたえられた者は、もし不足すれば、すなわち掌故(礼楽の規則や慣例をあつかった役)を択(えら)んで、中二千石の属(ぞく)に補(おぎな)い、
文學掌故補郡屬備員
文學、掌故を択(えら)んで郡属の備員に補(おぎな)います。
請著功令佗如律令制曰可
功令を著(あらわ)して、律令の如(ごと)くに加えることを請(こ)う』と。制して曰く、『よろしい』と。
自此以來則公卿大夫士吏斌斌多文學之士矣
これより以来(いらい)、すなわち公卿、大夫、士、吏は斌斌(ひんひん)と調和して文学の士を多(た)としたのだ」と。
申公者魯人也
申公という者は魯の人である。
高祖過魯申公以弟子從師入見高祖于魯南宮
漢高祖劉邦が魯に立寄ったとき、申公は弟子を以って師(先生)に従(したが)い、漢高祖劉邦に魯南宮において入見した。
呂太后時申公游學長安與劉郢同師
呂太后の時、申公は長安に遊学し、劉郢と同じ師(先生)に学んだ。
已而郢為楚王令申公傅其太子戊
しばらくして劉郢が楚王に為り、申公に令(れい)してその太子劉戊を教育させた。
戊不好學疾申公及王郢卒戊立為楚王胥靡申公
楚太子劉戊は学問を好まず、申公をにくんだ。楚王劉郢が亡くなるに及んで、楚太子劉戊が立って楚王に為り、申公を胥靡(しょび 何もしないこと)した。
申公恥之歸魯退居家教終身不出門
申公はこれを恥(は)じ、魯に帰り、隠居して教え、身を終えるまで門を出ず、
復謝絕賓客獨王命召之乃往
賓客を謝絶(しゃぜつ)してかえし、ただ王命がこれを召せばすなわち往(ゆ)くのみであった。
弟子自遠方至受業者百餘人
弟子の遠方(えんぽう)より学業をさずかりに至った者は百余人。
申公獨以詩經為訓以教無傳(疑)疑者則闕不傳
申公はただ詩経を以って訓(くん)じ教えるを以ってし、うたがわしいものは伝えること無く、疑わしい者はすなわち除(のぞ)いて伝えなかった。
蘭陵王臧既受詩以事孝景帝為太子少傅免去
蘭陵の王臧がすでに詩経をまなび、漢孝景帝劉啓に仕(つか)えるを以って太子少傅と為ったが、免ぜられて去った。
今上初即位臧乃上書宿衛上
今上(漢孝武帝劉徹)が即位したばかりの時、王臧はそこで宿衛上で上書し、
累遷一歲中為郎中令
遷(うつ)り進んで、一年以内に郎中令い為った。
及代趙綰亦嘗受詩申公綰為御史大夫
趙綰もまた嘗(かつ)て申公に詩経を学んだことがあり、代(か)えるに及んで、趙綰は御史大夫に為った。
綰臧請天子欲立明堂以朝諸侯
漢御史大夫趙綰、漢郎中令王臧は天子に、明堂を立てて諸侯に朝させるを以ってすることを欲して、請(こ)うた。
不能就其事乃言師申公
その事に就(つ)くことができず、そこで、師(先生)の申公を言った。
於是天子使使束帛加璧安車駟馬迎申公
ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)は使者をつかわし、束帛(そくはく たばねた絹の進物)に璧(へき)を加え、安車(老人、女子用のすわって乗る車)の四頭立て馬車で申公を迎(むか)えさせた。
弟子二人乘軺傳從
弟子二人が軺車(ようしゃ 小さい車)の伝車に乗り継いで従(したが)った。
至見天子天子問治亂之事
至り、天子(漢孝武帝劉徹)に見(まみ)えた。天子(漢孝武帝劉徹)は治乱の事を問うた。
申公時已八十餘老對曰
申公は時にすでに八十余歳で老(お)いており、応(こた)えて曰く、
為治者不在多言顧力行何如耳
「治(ち)を為す者は多言に在(あ)らず、力行の何如(いかん)を顧(かえり)みるのみ」と。
是時天子方好文詞見申公對默然
ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)はまさに文詞を好(この)んでおり、申公の応(こた)えを見て、黙然(もくぜん)とだまりこんだ。
然已招致則以為太中大夫舍魯邸議明堂事
然(しか)るにすでに招致(しょうち)して、すなわち太中大夫と為すを以って、魯邸に住まわせて、
明堂の事を議(ぎ)させた。
太皇竇太后好老子言不說儒術
太皇竇太后(武帝の祖母)は老子の言を好み、儒術をよろこばなかった。
得趙綰王臧之過以讓上上因廢明堂事
漢御史大夫趙綰、漢郎中令王臧の過(あやま)ちを得て、上(漢孝武帝劉徹)に責め叱るを以ってし、
上(漢孝武帝劉徹)は因(よ)りて明堂の事を廃止した。
盡下趙綰王臧吏後皆自殺
ことごとく漢御史大夫趙綰、漢郎中令王臧を役人に下(くだ)して、後に皆(みな)自殺した。
申公亦疾免以歸數年卒
漢太中大夫申公もまたにくまれ免(めん)ぜられて帰るを以ってし、数年して亡くなった。
弟子為博士者十餘人孔安國至臨淮太守
弟子の博士と為った者は十余人、孔安国は臨淮太守に至り、
周霸至膠西內史夏至城陽內史
周霸は膠西内史に至り、夏は城陽内史に至り、
碭魯賜至東海太守蘭陵繆生至長沙內史
碭魯は東海太守に至るを賜(たま)わり、蘭陵の繆生は長沙内史に至り、
徐偃為膠西中尉鄒人闕門慶忌為膠東內史
徐偃は膠西中尉に為り、鄒人の闕門の慶忌は膠東内史に為った。
其治官民皆有廉節稱其好學
その官、民を治(おさ)めるは皆(みな)廉節が有り、その好学を称(たた)えられた。
學官弟子行雖不備而至於大夫郎中掌故以百數
学官の弟子は行いが備(そな)わっていないと雖(いえど)も、しこうして大夫、郎中、掌故(礼楽の規則や慣例をあつかった役)に至るものは百を以って数えた。
言詩雖殊多本於申公
詩経を言うに異なると雖(いえど)も、多くが申公を本(もと)にした。