竇太后好老子書召轅固生問老子書
は老子の書を好み、轅固先生を召して老子の書を問うた。
固曰此是家人言耳太后怒曰
先生曰く、「これは一般庶民の言であるだけです」と。竇太后は怒って曰く、
安得司空城旦書乎乃使固入圈刺豕
「いずこに司空の城旦(刑罰名)の書は得られるのか?」と。そこで轅固先生をして檻(おり)に入らせてぶたを刺(さ)させようとした。
景帝知太后怒而固直言無罪乃假固利兵
漢孝景帝劉啓は竇太后が怒ったが、轅固の直言は無罪であると知って、そこで轅固にするどい兵器を貸(か)した。
下圈刺豕正中其心一刺豕應手而倒
檻(おり)に下(お)りてぶたを刺すと、その心臓に正しく中(あた)り、一刺で、ぶたは手並みに応じて倒(たお)れた。
太后默然無以復罪罷之居頃之
竇太后は黙然(もくぜん)とだまりこみ、ふたたび罪するを以ってすることは無く、これを中止した。居ることしばらくして、
景帝以固為廉直拜為清河王太傅久之病免
漢孝景帝劉啓は轅固を以って廉直(れんちょく)だと思い、官をさずけて清河王太傅と為さしめた。しばらくして、病(やまい)にかかり免(めん)ぜられた。
今上初即位復以賢良徵固
今上(漢孝武帝劉徹)が即位したばかりのとき、ふたたび賢良を以って轅固を取り立てた。
諸諛儒多疾毀固曰固老罷歸之
諸(もろもろ)のへつらう儒者の多くが轅固をにくみそしり、曰く、「轅固は老いた」と、これをやめさせて帰らせようとした。
時固已九十餘矣固之徵也
時に轅固はすでに九十余歳で、轅固は徴召に行ったのである。
薛人公孫弘亦徵側目而視固
薛人の公孫弘もまた徴召され、目をそばだてて轅固を視(み)た。
固曰公孫子務正學以言無曲學以阿世
轅固曰く、「公孫氏は、学問を正(ただ)して言を以ってすることに務(つと)め、学問を曲(ま)げて世(よ)におもねるを以ってすること無かれ」と。
自是之後齊言詩皆本轅固生也
これの後より、斉は言う、詩はみな(みな)轅固先生を本(もと)にするのであると。
諸齊人以詩顯貴皆固之弟子也
諸(もろもろ)の詩を以って出世した斉の人は、皆(みな)轅固の弟子なのである。
韓生者燕人也
韓先生という者は燕の人である。
孝文帝時為博士景帝時為常山王太傅
漢孝文帝劉恒の時に博士と為り、漢孝景帝劉啓の時に常山王太傅と為った。
韓生推詩之意而為內外傳數萬言
韓先生は詩の意味をおしはかり、しこうして、内外伝の数万言を作った。
其語頗與齊魯殊然其歸一也
その話しは頗(すこぶ)る、斉と魯の間(あいだ)の殊(すぐれていること)に与(あずか)り、然(しか)るにその一(いつ)に帰(き)しているのである。
淮南賁生受之自是之後
淮南の賁先生はこれを学んだ。これの後より、
而燕趙言詩者由韓生
しこうして、燕と趙の間(あいだ)で詩を言う者は韓先生に由(よ)った。
韓生孫商為今上博士
韓先生の孫の韓商は今上(漢孝武帝劉徹)の博士に為った。
伏生者濟南人也
伏先生という者は済南の人である。
故為秦博士孝文帝時欲求能治尚書者天下無有
以前、秦の博士と為った。漢孝文帝劉恒の時、尚書を治(おさ)めることができる者を求めようと天下の有無(うむ)欲し、
乃聞伏生能治欲召之
そこで、伏先生が治めることができると聞き、これを召し寄せることを欲した。
是時伏生年九十餘老不能行
この時、伏先生の年齢は九十余りで老いており、行くことができず、
於是乃詔太常使掌故晁錯往受之
ここに於いてすなわち、漢太常に詔(みことのり)して、掌故(礼楽の規則や慣例をあつかった役)の晁錯をつかわし、これを学びに往(ゆ)かせた。
秦時焚書伏生壁藏之
秦の時、書を焼き、伏先生はこれを壁(かべ)の中にしまいこんでいた。
其後兵大起流亡漢定伏生求其書
その後、戦いが大いに起こり、さすらって、漢が定まると、伏先生はその書を求(もと)め、
亡數十篇獨得二十九篇即以教于齊魯之
数十篇を亡(な)くし、ただ二十九編のみを得て、すなわち、斉と魯の間(あいだ)で教えるを以ってした。
學者由是頗能言尚書
学者はこれに由(よ)り、頗(すこぶ)る尚書を言うことができるようになり、
諸山東大師無不涉尚書以教矣
諸(もろもろ)の山東の大先生は、尚書を広く見聞せずに教えるを以ってすることは無くなった。
は老子の書を好み、轅固先生を召して老子の書を問うた。
固曰此是家人言耳太后怒曰
先生曰く、「これは一般庶民の言であるだけです」と。竇太后は怒って曰く、
安得司空城旦書乎乃使固入圈刺豕
「いずこに司空の城旦(刑罰名)の書は得られるのか?」と。そこで轅固先生をして檻(おり)に入らせてぶたを刺(さ)させようとした。
景帝知太后怒而固直言無罪乃假固利兵
漢孝景帝劉啓は竇太后が怒ったが、轅固の直言は無罪であると知って、そこで轅固にするどい兵器を貸(か)した。
下圈刺豕正中其心一刺豕應手而倒
檻(おり)に下(お)りてぶたを刺すと、その心臓に正しく中(あた)り、一刺で、ぶたは手並みに応じて倒(たお)れた。
太后默然無以復罪罷之居頃之
竇太后は黙然(もくぜん)とだまりこみ、ふたたび罪するを以ってすることは無く、これを中止した。居ることしばらくして、
景帝以固為廉直拜為清河王太傅久之病免
漢孝景帝劉啓は轅固を以って廉直(れんちょく)だと思い、官をさずけて清河王太傅と為さしめた。しばらくして、病(やまい)にかかり免(めん)ぜられた。
今上初即位復以賢良徵固
今上(漢孝武帝劉徹)が即位したばかりのとき、ふたたび賢良を以って轅固を取り立てた。
諸諛儒多疾毀固曰固老罷歸之
諸(もろもろ)のへつらう儒者の多くが轅固をにくみそしり、曰く、「轅固は老いた」と、これをやめさせて帰らせようとした。
時固已九十餘矣固之徵也
時に轅固はすでに九十余歳で、轅固は徴召に行ったのである。
薛人公孫弘亦徵側目而視固
薛人の公孫弘もまた徴召され、目をそばだてて轅固を視(み)た。
固曰公孫子務正學以言無曲學以阿世
轅固曰く、「公孫氏は、学問を正(ただ)して言を以ってすることに務(つと)め、学問を曲(ま)げて世(よ)におもねるを以ってすること無かれ」と。
自是之後齊言詩皆本轅固生也
これの後より、斉は言う、詩はみな(みな)轅固先生を本(もと)にするのであると。
諸齊人以詩顯貴皆固之弟子也
諸(もろもろ)の詩を以って出世した斉の人は、皆(みな)轅固の弟子なのである。
韓生者燕人也
韓先生という者は燕の人である。
孝文帝時為博士景帝時為常山王太傅
漢孝文帝劉恒の時に博士と為り、漢孝景帝劉啓の時に常山王太傅と為った。
韓生推詩之意而為內外傳數萬言
韓先生は詩の意味をおしはかり、しこうして、内外伝の数万言を作った。
其語頗與齊魯殊然其歸一也
その話しは頗(すこぶ)る、斉と魯の間(あいだ)の殊(すぐれていること)に与(あずか)り、然(しか)るにその一(いつ)に帰(き)しているのである。
淮南賁生受之自是之後
淮南の賁先生はこれを学んだ。これの後より、
而燕趙言詩者由韓生
しこうして、燕と趙の間(あいだ)で詩を言う者は韓先生に由(よ)った。
韓生孫商為今上博士
韓先生の孫の韓商は今上(漢孝武帝劉徹)の博士に為った。
伏生者濟南人也
伏先生という者は済南の人である。
故為秦博士孝文帝時欲求能治尚書者天下無有
以前、秦の博士と為った。漢孝文帝劉恒の時、尚書を治(おさ)めることができる者を求めようと天下の有無(うむ)欲し、
乃聞伏生能治欲召之
そこで、伏先生が治めることができると聞き、これを召し寄せることを欲した。
是時伏生年九十餘老不能行
この時、伏先生の年齢は九十余りで老いており、行くことができず、
於是乃詔太常使掌故晁錯往受之
ここに於いてすなわち、漢太常に詔(みことのり)して、掌故(礼楽の規則や慣例をあつかった役)の晁錯をつかわし、これを学びに往(ゆ)かせた。
秦時焚書伏生壁藏之
秦の時、書を焼き、伏先生はこれを壁(かべ)の中にしまいこんでいた。
其後兵大起流亡漢定伏生求其書
その後、戦いが大いに起こり、さすらって、漢が定まると、伏先生はその書を求(もと)め、
亡數十篇獨得二十九篇即以教于齊魯之
数十篇を亡(な)くし、ただ二十九編のみを得て、すなわち、斉と魯の間(あいだ)で教えるを以ってした。
學者由是頗能言尚書
学者はこれに由(よ)り、頗(すこぶ)る尚書を言うことができるようになり、
諸山東大師無不涉尚書以教矣
諸(もろもろ)の山東の大先生は、尚書を広く見聞せずに教えるを以ってすることは無くなった。