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諸學者多言禮而魯高堂生最本

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諸學者多言禮而魯高堂生最本

諸(もろもろ)の学者の多くが礼(れい)を言い、しこうして、魯の高堂先生が最も本(もと)である。

禮固自孔子時而其經不具及至秦焚書

礼は固(もと)より孔子のときより、しこうして、その経(きょう)は具(そな)わっておらず、秦の焚書(ふんしょ)に至って、

書散亡益多於今獨有士禮高堂生能言之

書は散亡(さんぼう)することますます多く、今に於いては、ただ士礼が有るのみで、高堂先生がこれを言うことができた。

而魯徐生善為容孝文帝時徐生以容為禮官大夫

しこうして、魯の徐先生が作法(さほう)を為すに善(よ)くした。漢孝文帝劉恒の時、徐先生は作法を以って礼官大夫と為った。

傳子至孫延徐襄襄其天姿善為容不能通禮經

子に伝(つた)え、孫(まご)の徐延、徐襄に至った。徐襄は、そのうまれつきの性質が作法を為すに善(よ)くしたが、礼経に通じることはできなかった。

延頗能未善也襄以容為漢禮官大夫至廣陵內史

徐延は頗(すこぶ)るできたが、未(ま)だうまくはなかったのである。徐襄は作法を以って漢礼官大夫と為り、広陵内史に至った。

延及徐氏弟子公戶滿意桓生單次皆嘗為漢禮官大夫

徐延及び、徐氏の弟子の公戸満意、桓先生、単次は皆(みな)嘗(かつ)て漢礼官大夫と為った。

而瑕丘蕭奮以禮為淮陽太守

しこうして瑕丘の蕭奮が礼を以って淮陽太守と為った。

是後能言禮為容者由徐氏焉

この後、礼を言うことができて作法を為すことができる者は、徐氏に由(よ)るのである。

自魯商瞿受易孔子孔子卒商瞿傳易六世

魯の商瞿が孔子に易(えき)を学んでより、孔子が亡くなり、商瞿が易(えき)を六世代人に伝えた。

至齊人田何字子莊而漢興

斉人の田何、字(あざな)は子荘に至りて、漢が興(おこ)った。

田何傳東武人王同子仲子仲傳菑川人楊何

田何は東武人の王同子仲に伝え、王同子仲は菑川人の楊何に伝えた。

何以易元光元年徵官至中大夫

楊何は易(えき)を以って、元光元年に徴召され、官は中大夫に至った。

齊人即墨成以易至城陽相

斉人の即墨成が易(えき)を以って城陽相に至った。

廣川人孟但以易為太子門大夫

廣川人の孟但は易(えき)を以って太子門大夫と為った。

魯人周霸莒人衡胡臨菑人主父偃皆以易至二千石

魯人の周霸,莒人の衡胡,臨菑人の主父偃は皆(みな)易(えき)を以って二千石に至った。

然要言易者本於楊何之家

然(しか)るに易(えき)を要言(ようげん)する者は楊何の家門を本(もと)にするのである。

董仲舒廣川人也

董仲舒は広川の人である。

以治春秋孝景時為博士

春秋を治(おさ)めるを以って、漢孝景帝劉啓の時に博士と為った。

下帷講誦弟子傳以久次相受業或莫見其面

帷(とばり)を下(さ)げて、声を出して読んで講(こう)じ、弟子は伝えるに、久次(長い間同じ官のままで昇進しないこと)を以って授業の輔佐をしても、或(あ)るものはその顔も見たことがないと。

蓋三年董仲舒不觀於舍園其精如此

思うに三年、董仲舒は官舎の園(その)もながめず、その熱心さはこの如(ごと)くであった。

進退容止非禮不行學士皆師尊之

進退(しんたい)の容止(ようし 身のこなし)は礼が行われないことは非(あら)ず、学士は皆(みな)これをならい尊んだ。

今上即位為江都相

今上(漢孝武帝劉徹)が即位して、江都相と為った。

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