以春秋災異之變推陰陽所以錯行
春秋経の天災地異の変事を以って、陰(いん)、陽(よう)が錯行(四季の移り変わりのように、かわるがわるまわっていくこと)する所以(ゆえん)を推測(すいそく)した。
故求雨閉諸陽縱諸陰其止雨反是
故(ゆえ)に雨を求めるときは、諸(もろもろ)の陽(よう)を閉(と)じて、諸(もろもろ)の陰(いん)を自由にさせた。その雨を止(や)ませるときは、これを反対にすると。
行之一國未嘗不得所欲
これを国中(江都)で行い、未(いま)だ嘗(かつ)て欲するところを得ないことはなかった。
中廢為中大夫居舍著災異之記
廃されるに中(あた)り漢中大夫に為った。官舎に居(きょ)して、天災地異の記を著(あらわ)した。
是時遼東高廟災主父偃疾之取其書奏之天子
この時、遼東の高廟(高祖廟)が火事になった。主父偃がこれをにくみ、その書を取ってこれを天子(漢孝武帝劉徹)に奏(かな)でた。
天子召諸生示其書有刺譏
天子(漢孝武帝劉徹)は諸(もろもろ)の先生を召し寄せてその書を示(しめ)すと、そしりが有った。
董仲舒弟子呂步舒不知其師書以為下愚
漢中大夫董仲舒の弟子の呂步舒がその師匠(ししょう)の書だとは知らず、下愚(かぐ 非常に愚かなもの)と為すを以ってした。
於是下董仲舒吏當死詔赦之
ここに於いて漢中大夫董仲舒を役人に下(くだ)し、死罪に罪を問われ、詔(みことのり)してこれを赦(ゆる)した。
於是董仲舒竟不敢復言災異
ここに於いて、董仲舒はとうとう敢(あ)えて、ふたたび天災地異を言うことはなかった。
董仲舒為人廉直
董仲舒の人と為りは廉直(れんちょく)だった。
是時方外攘四夷公孫弘治春秋不如董仲舒
この時、まさに外(そと)では四夷を追い払わんとしており、公孫弘の春秋経を治(おさ)めるは董仲舒に及(およ)ばなかったが、
而弘希世用事位至公卿
しこうして公孫弘は迎合(げいごう)して事に用いられ(政治をもっぱらにし)たので、位は公卿に至っていた。
董仲舒以弘為從諛
董仲舒は公孫弘を以って思うままにおもねりこびる者だと思った。
弘疾之乃言上曰獨董仲舒可使相繆西王
公孫弘はこれをにくみ、そこで上(漢孝武帝劉徹)に言った、曰く、「ただ、董仲舒は繆西王を輔佐させるべきです」と。
膠西王素聞董仲舒有行亦善待之
膠西王は素(もと)より董仲舒に行いが有ることを聞いており、また善(よ)くこれを待遇しようとした。
董仲舒恐久獲罪疾免居家
董仲舒は、しばらくして罪を獲(え)ることを恐れ、病を理由に免ぜられて隠居(いんきょ)した。
至卒終不治產業以修學著書為事
亡くなるに至り、身を終えるまで産業を治(おさ)めず、学問を修(おさ)めて書を著(あらわ)すことを仕事とした。
故漢興至于五世之唯董仲舒名為明於春秋其傳公羊氏也
故(ゆえ)に漢が興(おこ)って五代目に至る間(あいだ)は、唯(ただ)董仲舒の名だけが春秋経に於いて明らかに為り、その公羊氏を伝(つた)えたのである。
胡毋生齊人也
胡毋先生は斉の人である。
孝景時為博士以老歸教授
漢孝景帝劉啓の時に博士に為り、老(お)いるを以って帰り、教え授(さず)けた。
齊之言春秋者多受胡毋生公孫弘亦頗受焉
斉の春秋経を言う者の多くは胡毋先生に学び、公孫弘もまた頗(すこぶ)る授(さず)かったのである。
瑕丘江生為穀梁春秋
瑕丘の江先生は穀梁春秋を(明らかに?)為した。
自公孫弘得用嘗集比其義卒用董仲舒
公孫弘が用いられるを得てより、嘗(かつ)てその義(ぎ)を比(くら)べ集めたことがあり、とうとう董仲舒を用いた。
仲舒弟子遂者蘭陵褚大廣川殷忠溫呂步舒
董仲舒の弟子の成し遂(と)げた者は、蘭陵の褚大、広川の殷忠、溫の呂步舒である。
褚大至梁相步舒至長史持節使決淮南獄
褚大は梁相に至り、呂步舒は長史に至り、使者の旗(はた)を以って淮南の裁判を断罪(だんざい)させた。
於諸侯擅專斷不報以春秋之義正之天子皆以為是
諸侯に於いて思うままに自分の独断で決め、報告をしなかったが、春秋の義(ぎ)を以ってこれを正(ただ)したので、天子(漢孝武帝劉徹)は皆(みな)正しいと為すを以ってした。
弟子通者至於命大夫為郎謁者掌故者以百數
弟子の通(つう)じた者は、命大夫に至り、郎、謁者、掌故に為った者は百を以って数えた。
而董仲舒子及孫皆以學至大官
しこうして 董仲舒の子、及び孫(まご)は皆(みな)学問を以って大官に至った。
今日で史記 儒林列伝は終わりです。明日からは史記 酷吏列伝に入ります。
春秋経の天災地異の変事を以って、陰(いん)、陽(よう)が錯行(四季の移り変わりのように、かわるがわるまわっていくこと)する所以(ゆえん)を推測(すいそく)した。
故求雨閉諸陽縱諸陰其止雨反是
故(ゆえ)に雨を求めるときは、諸(もろもろ)の陽(よう)を閉(と)じて、諸(もろもろ)の陰(いん)を自由にさせた。その雨を止(や)ませるときは、これを反対にすると。
行之一國未嘗不得所欲
これを国中(江都)で行い、未(いま)だ嘗(かつ)て欲するところを得ないことはなかった。
中廢為中大夫居舍著災異之記
廃されるに中(あた)り漢中大夫に為った。官舎に居(きょ)して、天災地異の記を著(あらわ)した。
是時遼東高廟災主父偃疾之取其書奏之天子
この時、遼東の高廟(高祖廟)が火事になった。主父偃がこれをにくみ、その書を取ってこれを天子(漢孝武帝劉徹)に奏(かな)でた。
天子召諸生示其書有刺譏
天子(漢孝武帝劉徹)は諸(もろもろ)の先生を召し寄せてその書を示(しめ)すと、そしりが有った。
董仲舒弟子呂步舒不知其師書以為下愚
漢中大夫董仲舒の弟子の呂步舒がその師匠(ししょう)の書だとは知らず、下愚(かぐ 非常に愚かなもの)と為すを以ってした。
於是下董仲舒吏當死詔赦之
ここに於いて漢中大夫董仲舒を役人に下(くだ)し、死罪に罪を問われ、詔(みことのり)してこれを赦(ゆる)した。
於是董仲舒竟不敢復言災異
ここに於いて、董仲舒はとうとう敢(あ)えて、ふたたび天災地異を言うことはなかった。
董仲舒為人廉直
董仲舒の人と為りは廉直(れんちょく)だった。
是時方外攘四夷公孫弘治春秋不如董仲舒
この時、まさに外(そと)では四夷を追い払わんとしており、公孫弘の春秋経を治(おさ)めるは董仲舒に及(およ)ばなかったが、
而弘希世用事位至公卿
しこうして公孫弘は迎合(げいごう)して事に用いられ(政治をもっぱらにし)たので、位は公卿に至っていた。
董仲舒以弘為從諛
董仲舒は公孫弘を以って思うままにおもねりこびる者だと思った。
弘疾之乃言上曰獨董仲舒可使相繆西王
公孫弘はこれをにくみ、そこで上(漢孝武帝劉徹)に言った、曰く、「ただ、董仲舒は繆西王を輔佐させるべきです」と。
膠西王素聞董仲舒有行亦善待之
膠西王は素(もと)より董仲舒に行いが有ることを聞いており、また善(よ)くこれを待遇しようとした。
董仲舒恐久獲罪疾免居家
董仲舒は、しばらくして罪を獲(え)ることを恐れ、病を理由に免ぜられて隠居(いんきょ)した。
至卒終不治產業以修學著書為事
亡くなるに至り、身を終えるまで産業を治(おさ)めず、学問を修(おさ)めて書を著(あらわ)すことを仕事とした。
故漢興至于五世之唯董仲舒名為明於春秋其傳公羊氏也
故(ゆえ)に漢が興(おこ)って五代目に至る間(あいだ)は、唯(ただ)董仲舒の名だけが春秋経に於いて明らかに為り、その公羊氏を伝(つた)えたのである。
胡毋生齊人也
胡毋先生は斉の人である。
孝景時為博士以老歸教授
漢孝景帝劉啓の時に博士に為り、老(お)いるを以って帰り、教え授(さず)けた。
齊之言春秋者多受胡毋生公孫弘亦頗受焉
斉の春秋経を言う者の多くは胡毋先生に学び、公孫弘もまた頗(すこぶ)る授(さず)かったのである。
瑕丘江生為穀梁春秋
瑕丘の江先生は穀梁春秋を(明らかに?)為した。
自公孫弘得用嘗集比其義卒用董仲舒
公孫弘が用いられるを得てより、嘗(かつ)てその義(ぎ)を比(くら)べ集めたことがあり、とうとう董仲舒を用いた。
仲舒弟子遂者蘭陵褚大廣川殷忠溫呂步舒
董仲舒の弟子の成し遂(と)げた者は、蘭陵の褚大、広川の殷忠、溫の呂步舒である。
褚大至梁相步舒至長史持節使決淮南獄
褚大は梁相に至り、呂步舒は長史に至り、使者の旗(はた)を以って淮南の裁判を断罪(だんざい)させた。
於諸侯擅專斷不報以春秋之義正之天子皆以為是
諸侯に於いて思うままに自分の独断で決め、報告をしなかったが、春秋の義(ぎ)を以ってこれを正(ただ)したので、天子(漢孝武帝劉徹)は皆(みな)正しいと為すを以ってした。
弟子通者至於命大夫為郎謁者掌故者以百數
弟子の通(つう)じた者は、命大夫に至り、郎、謁者、掌故に為った者は百を以って数えた。
而董仲舒子及孫皆以學至大官
しこうして 董仲舒の子、及び孫(まご)は皆(みな)学問を以って大官に至った。
今日で史記 儒林列伝は終わりです。明日からは史記 酷吏列伝に入ります。