周陽由者其父趙兼以淮南王舅父侯周陽故因姓周陽氏
周陽由という者はその父は趙兼で淮南王の舅父(母の兄弟 おじ)を以って周陽で侯になり、故(ゆえ)に因(よ)りて姓は周陽氏である。
由以宗家任為郎事孝文及景帝
周陽由は宗家を以って任子(にんし)されて郎(官名)に為り、漢孝文帝劉恒及び漢孝景帝劉啓に仕(つか)えた。
景帝時由為郡守武帝即位吏治尚循謹甚
漢孝景帝劉啓の時、周陽由は郡守に為った。漢孝武帝劉徹が即位したとき、役人の治(ち)は尚(なお)まもり謹(つつし)むこと甚(はなは)だで、
然由居二千石中最為暴酷驕恣
然(しか)るに、周陽由は二千石の中に居(い)て、最も荒々しく酷(むご)く驕(おご)り思うままであった。
所愛者撓法活之所憎者曲法誅滅之
愛するところの者は法を撓(たわ)めてもこれを活(い)かし、憎むところの者は法を曲げてもこれを誅滅(ちゅうめつ)した。
所居郡必夷其豪為守視都尉如令
居(お)るところの郡では、必ずその豪傑をたいらげた。郡守に為れば、都尉を県令の如(ごと)く視(み)て、
為都尉必陵太守奪之治
都尉に為れば、必ず太守(郡守)をあなどり、これの治(ち)を奪(うば)った。
與汲黯俱為忮司馬安之文惡
汲黯とともに、司馬安(汲黯の伯母の子)の法文をうらんでそしり、
俱在二千石列同車未嘗敢均茵伏
ともに二千石の列(れつ)に在(あ)って、車を同じくしても未(いま)だ嘗(かつ)て車の敷物を平らにならして伏(ふ)せたことは無かった。
由后為河東都尉時與其守勝屠公爭權相告言罪
周陽由は後に河東都尉に為り、時にその郡守勝屠公と権力を争い、互いに罪を言い告げた。
勝屠公當抵罪義不受刑自殺而由棄市
河東郡守勝屠公は罪にふれるに当たり、義(ぎ)は刑を受けず、自殺し、しこうし河東都尉周陽由は棄市の刑に処せられた。
自寧成周陽由之后事益多
寧成より、周陽由の後、事(こと)は益々(ますます)多くなり、
民巧法大抵吏之治類多成由等矣
民(たみ)は法をいつわり、大抵(たいてい)役人の治(ち)の類(たぐい)は寧成、周陽由を多(た)とした。
趙禹者斄人以佐史補中都官
趙禹という者は斄の人である。佐史を以って中都官を補(おぎな)い、
用廉為令史事太尉亞夫
廉潔(れんけつ)を用いられて令史と為り、漢太尉周亞夫に仕(つか)えた。
亞夫為丞相禹為丞相史
漢太尉周亞夫が丞相に為ると、漢令史趙禹は丞相史と為り、
府中皆稱其廉平然亞夫弗任曰
丞相府の中の皆(みな)はその廉平さを称(たた)えた。然(しか)るに漢丞相周亞夫は任(まか)せず、曰く、
極知禹無害然文深不可以居大府
「趙禹が無害であることは極(きわ)めてよく知っているが、然(しか)るに法文が深く、大府に居(い)るべきではない」と。
今上時禹以刀筆吏積勞稍遷為御史
今上(漢孝武帝劉徹)の時、趙禹は刀筆の役人(文字を書き写すだけの役人)を以って苦労を積(つ)み、次第に遷(うつ)されて御史に為った。
上以為能至太中大夫
上(漢孝武帝劉徹)は能力があると思い、太中大夫に至らしめた。
與張湯論定諸律令作見知吏傳得相監司
張湯と諸(もろもろ)の律令を論定(ろんてい)し、「見知」を作り、役人は発布して監司(州、郡を観察する官)を輔佐するを得た。
用法益刻蓋自此始
法を用いて益々きびしくなるは、思うにここより始まったのであろう。
周陽由という者はその父は趙兼で淮南王の舅父(母の兄弟 おじ)を以って周陽で侯になり、故(ゆえ)に因(よ)りて姓は周陽氏である。
由以宗家任為郎事孝文及景帝
周陽由は宗家を以って任子(にんし)されて郎(官名)に為り、漢孝文帝劉恒及び漢孝景帝劉啓に仕(つか)えた。
景帝時由為郡守武帝即位吏治尚循謹甚
漢孝景帝劉啓の時、周陽由は郡守に為った。漢孝武帝劉徹が即位したとき、役人の治(ち)は尚(なお)まもり謹(つつし)むこと甚(はなは)だで、
然由居二千石中最為暴酷驕恣
然(しか)るに、周陽由は二千石の中に居(い)て、最も荒々しく酷(むご)く驕(おご)り思うままであった。
所愛者撓法活之所憎者曲法誅滅之
愛するところの者は法を撓(たわ)めてもこれを活(い)かし、憎むところの者は法を曲げてもこれを誅滅(ちゅうめつ)した。
所居郡必夷其豪為守視都尉如令
居(お)るところの郡では、必ずその豪傑をたいらげた。郡守に為れば、都尉を県令の如(ごと)く視(み)て、
為都尉必陵太守奪之治
都尉に為れば、必ず太守(郡守)をあなどり、これの治(ち)を奪(うば)った。
與汲黯俱為忮司馬安之文惡
汲黯とともに、司馬安(汲黯の伯母の子)の法文をうらんでそしり、
俱在二千石列同車未嘗敢均茵伏
ともに二千石の列(れつ)に在(あ)って、車を同じくしても未(いま)だ嘗(かつ)て車の敷物を平らにならして伏(ふ)せたことは無かった。
由后為河東都尉時與其守勝屠公爭權相告言罪
周陽由は後に河東都尉に為り、時にその郡守勝屠公と権力を争い、互いに罪を言い告げた。
勝屠公當抵罪義不受刑自殺而由棄市
河東郡守勝屠公は罪にふれるに当たり、義(ぎ)は刑を受けず、自殺し、しこうし河東都尉周陽由は棄市の刑に処せられた。
自寧成周陽由之后事益多
寧成より、周陽由の後、事(こと)は益々(ますます)多くなり、
民巧法大抵吏之治類多成由等矣
民(たみ)は法をいつわり、大抵(たいてい)役人の治(ち)の類(たぐい)は寧成、周陽由を多(た)とした。
趙禹者斄人以佐史補中都官
趙禹という者は斄の人である。佐史を以って中都官を補(おぎな)い、
用廉為令史事太尉亞夫
廉潔(れんけつ)を用いられて令史と為り、漢太尉周亞夫に仕(つか)えた。
亞夫為丞相禹為丞相史
漢太尉周亞夫が丞相に為ると、漢令史趙禹は丞相史と為り、
府中皆稱其廉平然亞夫弗任曰
丞相府の中の皆(みな)はその廉平さを称(たた)えた。然(しか)るに漢丞相周亞夫は任(まか)せず、曰く、
極知禹無害然文深不可以居大府
「趙禹が無害であることは極(きわ)めてよく知っているが、然(しか)るに法文が深く、大府に居(い)るべきではない」と。
今上時禹以刀筆吏積勞稍遷為御史
今上(漢孝武帝劉徹)の時、趙禹は刀筆の役人(文字を書き写すだけの役人)を以って苦労を積(つ)み、次第に遷(うつ)されて御史に為った。
上以為能至太中大夫
上(漢孝武帝劉徹)は能力があると思い、太中大夫に至らしめた。
與張湯論定諸律令作見知吏傳得相監司
張湯と諸(もろもろ)の律令を論定(ろんてい)し、「見知」を作り、役人は発布して監司(州、郡を観察する官)を輔佐するを得た。
用法益刻蓋自此始
法を用いて益々きびしくなるは、思うにここより始まったのであろう。