趙禹中廢已而為廷尉
趙禹は途中で廃されたが、しばらくして廷尉に為った。
始條侯以為禹賊深弗任
以前、漢丞相條侯周亞夫は趙禹は罪にあてることが深く、任(まか)せられないと思った。
及禹為少府比九卿
趙禹が少府に為るに及んで、九卿に並んだ。
禹酷急至晚節事益多吏務為嚴峻
漢少府趙禹ははなはだきびしく、晩年に至って、事(こと)はますます多くなり、役人は務(つと)めて厳峻(げんしゅん)に為った。
而禹治加緩而名為平
しこうして、漢少府趙禹の取調べは緩(ゆる)みを加え、しこうして聞こえは穏(おだ)やかに為った。
王溫舒等后起治酷於禹
王溫舒らが後の起こり、取調べは漢少府趙禹より厳酷(げんこく)にした。
禹以老徙為燕相
漢少府趙禹は老(お)いを以って、移されて燕相と為った。
數歲亂悖有罪免歸
数年して、乱れそむき罪を有(ゆう)し、免ぜられて帰った。
後湯十餘年以壽卒于家
張湯の十余年後に、天寿を以って家で亡くなった。
義縱者河東人也
義縱という者は、河東の人である。
為少年時嘗與張次公俱攻剽為群盜
少年に為った時、嘗(かつ)て、張次公とともに攻(せ)めおどして群盗と為った。
縱有姊姁以醫幸王太后
義縱には姉の姁が有り、医を以って王太后(武帝の母)にかわいがられた。
王太后問有子兄弟為官者乎
王太后が問うた、「なんじの兄弟の官と為す者は有るのか?」と。
姊曰有弟無行不可
姉曰く、「弟が有りますが、行いが無く、なれません」と。
太后乃告上拜義姁弟縱為中郎補上黨郡中令
王太后はそこで上(漢孝武帝劉徹)に告げて、義姁の弟の義縦に官をさずけて中郎と為し、上党郡中令に補(おぎな)った。
治敢行少蘊藉縣無逋事舉為第一
取調べは敢(あ)えて蘊藉(うんしゃ 心が広くておだやか)を少なくして行い、懸(か)けるは保留する事は無く、挙(あ)げるは第一にした。
遷為長陵及長安令直法行治不避貴戚
遷(うつ)して長陵及長安令と為さしめ、法の通りに取り調べを行い、貴戚(貴族の親類)を避(さ)けなかった。
以捕案太后外孫修成君子仲上以為能遷為河內都尉
王太后の外孫の修成君(王太后の前夫金氏との娘 漢武帝の異父姉)の子の仲を捕(と)らえ取り調べるを以ってして、上(漢孝武帝劉徹)は能力があると思い、遷(うつ)して河内都尉と為さしめた。
至則族滅其豪穰氏之屬河內道不拾遺
至ってすぐにその豪族の穰氏の仲間を族滅(ぞくめつ)し、河内の道では落し物も拾(ひろ)わなくなった。
而張次公亦為郎以勇悍從軍
しこうして張次公もまた郎と為って、勇悍(ゆうかん)さを以って従軍(じゅうぐん)した。
敢深入有功為岸頭侯
敢(あ)えて深く入り、手柄(てがら)が有り、岸頭侯と為った。
寧成家居上欲以為郡守
寧成が家に住んでいたとき、上(漢孝武帝劉徹)は郡守と為すことを欲した。
御史大夫弘曰臣居山東為小吏時
漢御史大夫公孫弘曰く、「わたしが山東に居(い)て小役人だった時、
寧成為濟南都尉其治如狼牧羊成不可使治民
寧成は済南都尉と為っていて、その取り調べは狼(おおかみ)が羊(ひつじ)を飼っているようでした。
寧成は民を取り調べさせるべきではありません」と。
上乃拜成為關都尉歲餘關東吏隸郡國出入關者
上(漢孝武帝劉徹)はそこで寧成に官をさずけて関都尉と為さしめた。一年余りして、関東の役人は、郡国の関に出入りする者を調べた。
號曰寧見乳虎無值寧成之怒
うわさに曰く、「寧成が乳虎(にゅうこ 子持ちの虎 おそろしいもののたとえ)に出会っても、寧成の怒りには値(あたい)しない」と。
義縱自河內遷為南陽太守聞寧成家居南陽
義縦は河内都尉から遷(うつ)されて南陽太守と為り、寧成が南陽に住んでいると聞き、
及縱至關寧成側行送迎然縱氣盛弗為禮
南陽太守義縦が関に至ると、関都尉寧成が側行して送迎(そうげい)したが、然(しか)るに南陽太守義縦の気が盛んで、礼を為さなかった。
至郡遂案寧氏盡破碎其家
南陽郡に至ると、遂(つい)に寧氏を取り調べ、ことごとくその家を破り砕(くだ)いた。
成坐有罪及孔暴之屬皆奔亡南陽吏民重足一跡
関都尉寧成は罪を問われ有罪になり、孔、暴の属は皆(みな)逃げ走り、南陽の吏民は足を重(かさ)ねて足跡(あしあと)を一(いつ)にしておびえた。
而平氏朱彊杜衍杜周為縱牙爪之吏任用遷為廷史
しこうして平氏の朱彊、杜衍の杜周が南陽太守義縦の牙爪の役人と為って、任用されて、遷(うつ)して廷史と為さしめた。
軍數出定襄定襄吏民亂敗於是徙縱為定襄太守
軍はたびたび定襄に出て、定襄の吏民は乱れ敗(やぶ)れ、ここに老いて南陽太守義縦を移して定襄太守と為さしめた。
縱至掩定襄獄中重罪輕系二百餘人
定襄太守義縦が至ると、定襄の獄中の重罪者、軽い罪でつながれている者二百余人、
及賓客昆弟私入相視亦二百餘人
及び賓客、兄弟のひそかに入って互いにに視(み)た者もまた二百余人を網をかぶせるようにしてつかまえ、
縱一捕鞠曰為死罪解脫
定襄太守義縦は一(いつ)に捕らえて取り調べ、曰く、「死罪と為して解き放(はな)せよ」と。
是日皆報殺四百餘人
この日、皆(みな)四百余人を裁(さば)き殺した。
其后郡中不寒而栗猾民佐吏為治
その後、定襄郡中は寒くなくても震(ふる)え、悪賢い民は役人を取り調べの為に補佐した。
趙禹は途中で廃されたが、しばらくして廷尉に為った。
始條侯以為禹賊深弗任
以前、漢丞相條侯周亞夫は趙禹は罪にあてることが深く、任(まか)せられないと思った。
及禹為少府比九卿
趙禹が少府に為るに及んで、九卿に並んだ。
禹酷急至晚節事益多吏務為嚴峻
漢少府趙禹ははなはだきびしく、晩年に至って、事(こと)はますます多くなり、役人は務(つと)めて厳峻(げんしゅん)に為った。
而禹治加緩而名為平
しこうして、漢少府趙禹の取調べは緩(ゆる)みを加え、しこうして聞こえは穏(おだ)やかに為った。
王溫舒等后起治酷於禹
王溫舒らが後の起こり、取調べは漢少府趙禹より厳酷(げんこく)にした。
禹以老徙為燕相
漢少府趙禹は老(お)いを以って、移されて燕相と為った。
數歲亂悖有罪免歸
数年して、乱れそむき罪を有(ゆう)し、免ぜられて帰った。
後湯十餘年以壽卒于家
張湯の十余年後に、天寿を以って家で亡くなった。
義縱者河東人也
義縱という者は、河東の人である。
為少年時嘗與張次公俱攻剽為群盜
少年に為った時、嘗(かつ)て、張次公とともに攻(せ)めおどして群盗と為った。
縱有姊姁以醫幸王太后
義縱には姉の姁が有り、医を以って王太后(武帝の母)にかわいがられた。
王太后問有子兄弟為官者乎
王太后が問うた、「なんじの兄弟の官と為す者は有るのか?」と。
姊曰有弟無行不可
姉曰く、「弟が有りますが、行いが無く、なれません」と。
太后乃告上拜義姁弟縱為中郎補上黨郡中令
王太后はそこで上(漢孝武帝劉徹)に告げて、義姁の弟の義縦に官をさずけて中郎と為し、上党郡中令に補(おぎな)った。
治敢行少蘊藉縣無逋事舉為第一
取調べは敢(あ)えて蘊藉(うんしゃ 心が広くておだやか)を少なくして行い、懸(か)けるは保留する事は無く、挙(あ)げるは第一にした。
遷為長陵及長安令直法行治不避貴戚
遷(うつ)して長陵及長安令と為さしめ、法の通りに取り調べを行い、貴戚(貴族の親類)を避(さ)けなかった。
以捕案太后外孫修成君子仲上以為能遷為河內都尉
王太后の外孫の修成君(王太后の前夫金氏との娘 漢武帝の異父姉)の子の仲を捕(と)らえ取り調べるを以ってして、上(漢孝武帝劉徹)は能力があると思い、遷(うつ)して河内都尉と為さしめた。
至則族滅其豪穰氏之屬河內道不拾遺
至ってすぐにその豪族の穰氏の仲間を族滅(ぞくめつ)し、河内の道では落し物も拾(ひろ)わなくなった。
而張次公亦為郎以勇悍從軍
しこうして張次公もまた郎と為って、勇悍(ゆうかん)さを以って従軍(じゅうぐん)した。
敢深入有功為岸頭侯
敢(あ)えて深く入り、手柄(てがら)が有り、岸頭侯と為った。
寧成家居上欲以為郡守
寧成が家に住んでいたとき、上(漢孝武帝劉徹)は郡守と為すことを欲した。
御史大夫弘曰臣居山東為小吏時
漢御史大夫公孫弘曰く、「わたしが山東に居(い)て小役人だった時、
寧成為濟南都尉其治如狼牧羊成不可使治民
寧成は済南都尉と為っていて、その取り調べは狼(おおかみ)が羊(ひつじ)を飼っているようでした。
寧成は民を取り調べさせるべきではありません」と。
上乃拜成為關都尉歲餘關東吏隸郡國出入關者
上(漢孝武帝劉徹)はそこで寧成に官をさずけて関都尉と為さしめた。一年余りして、関東の役人は、郡国の関に出入りする者を調べた。
號曰寧見乳虎無值寧成之怒
うわさに曰く、「寧成が乳虎(にゅうこ 子持ちの虎 おそろしいもののたとえ)に出会っても、寧成の怒りには値(あたい)しない」と。
義縱自河內遷為南陽太守聞寧成家居南陽
義縦は河内都尉から遷(うつ)されて南陽太守と為り、寧成が南陽に住んでいると聞き、
及縱至關寧成側行送迎然縱氣盛弗為禮
南陽太守義縦が関に至ると、関都尉寧成が側行して送迎(そうげい)したが、然(しか)るに南陽太守義縦の気が盛んで、礼を為さなかった。
至郡遂案寧氏盡破碎其家
南陽郡に至ると、遂(つい)に寧氏を取り調べ、ことごとくその家を破り砕(くだ)いた。
成坐有罪及孔暴之屬皆奔亡南陽吏民重足一跡
関都尉寧成は罪を問われ有罪になり、孔、暴の属は皆(みな)逃げ走り、南陽の吏民は足を重(かさ)ねて足跡(あしあと)を一(いつ)にしておびえた。
而平氏朱彊杜衍杜周為縱牙爪之吏任用遷為廷史
しこうして平氏の朱彊、杜衍の杜周が南陽太守義縦の牙爪の役人と為って、任用されて、遷(うつ)して廷史と為さしめた。
軍數出定襄定襄吏民亂敗於是徙縱為定襄太守
軍はたびたび定襄に出て、定襄の吏民は乱れ敗(やぶ)れ、ここに老いて南陽太守義縦を移して定襄太守と為さしめた。
縱至掩定襄獄中重罪輕系二百餘人
定襄太守義縦が至ると、定襄の獄中の重罪者、軽い罪でつながれている者二百余人、
及賓客昆弟私入相視亦二百餘人
及び賓客、兄弟のひそかに入って互いにに視(み)た者もまた二百余人を網をかぶせるようにしてつかまえ、
縱一捕鞠曰為死罪解脫
定襄太守義縦は一(いつ)に捕らえて取り調べ、曰く、「死罪と為して解き放(はな)せよ」と。
是日皆報殺四百餘人
この日、皆(みな)四百余人を裁(さば)き殺した。
其后郡中不寒而栗猾民佐吏為治
その後、定襄郡中は寒くなくても震(ふる)え、悪賢い民は役人を取り調べの為に補佐した。