是時趙禹張湯以深刻為九卿矣然其治尚
この時、趙禹、張湯が(法文を)深くきびしくするを以って九卿と為り、然(しか)るにその治(ち)は尚(なお)寛容(かんよう)で、
輔法而行而縱以鷹擊毛摯為治
法をよりどころとして行い、しこうして定襄太守義縦は鷹擊毛摯(ようげきもうし たかが羽ばたきして獲物をとらえること)を以って治(ち)を為した。
后會五銖錢白金起民為姦京師尤甚
後、このとき五銖錢、白金が起こり、民は不正を為し、京師(都)が尤(もっと)も甚(はなは)だしく、
乃以縱為右內史王溫舒為中尉
そこで、定襄太守義縦を以って右内史と為し、王溫舒を以って中尉と為さしめた。
溫舒至惡其所為不先言縱縱必以氣淩之敗壞其功
漢中尉王溫舒は悪をきわめ、その為すところは先んじて漢右内史義縦に言わず、漢右内史義縦は必ず気を以ってこれを凌(しの)ぎ、その功を敗(やぶ)り壊(こわ)した。
其治所誅殺甚多然取為小治姦益不勝直指始出矣
その治(ち)は、誅殺するところは甚(はなは)だ多く、然(しか)るにとるにたらない治(ち)を為すを取って、不正はますますおさえられず、直指が出始めた。
吏之治以斬殺縛束為務閻奉以惡用矣縱廉其治放郅都
役人の治(ち)は、斬殺、縛束を以って務(つと)めと為し、村里は奉(たてまつ)るに悪を以って用いた。漢右内史義縦は廉潔(れんけつ)で、その治(ち)は郅都(人名)を模倣(もほう)した。
上幸鼎湖病久已而卒起幸甘泉道多不治
上(漢孝武帝劉徹)は鼎湖に行き、病にかかって久しく、しばらくしてにわかに起き上がって甘泉に行き、道の多くがととのっていなかった。
上怒曰縱以我為不復行此道乎嗛之
上(漢孝武帝劉徹)は怒って曰く、「義縦は我(われ)がこの道をいくことがふたたびないと思ったのか?」と、これをうらんだ。
至冬楊可方受告緡縱以為此亂民部吏捕其為可使者
冬に至り、揚可がまさに告緡令を授(さず)けんとし、漢右内史義縦はこれが民を乱すと思い、役人を配置してその楊可の使者と為った者を捕(と)らえた。
天子聞使杜式治以為廢格沮事棄縱市後一歲張湯亦死
天子(漢孝武帝劉徹)は聞いて、杜式をつかわし取調べさせ、格令(かくれい)を廃(はい)して事(こと)をはばんだと為すを以って、義縦を棄市罪に処した。一年後、張湯もまた死んだ。
王溫舒者陽陵人也少時椎埋為姦
王温舒という者は、陽陵の人である。少年時に椎埋(ついまい うちころして埋めること)して不正をしていた。
この時、趙禹、張湯が(法文を)深くきびしくするを以って九卿と為り、然(しか)るにその治(ち)は尚(なお)寛容(かんよう)で、
輔法而行而縱以鷹擊毛摯為治
法をよりどころとして行い、しこうして定襄太守義縦は鷹擊毛摯(ようげきもうし たかが羽ばたきして獲物をとらえること)を以って治(ち)を為した。
后會五銖錢白金起民為姦京師尤甚
後、このとき五銖錢、白金が起こり、民は不正を為し、京師(都)が尤(もっと)も甚(はなは)だしく、
乃以縱為右內史王溫舒為中尉
そこで、定襄太守義縦を以って右内史と為し、王溫舒を以って中尉と為さしめた。
溫舒至惡其所為不先言縱縱必以氣淩之敗壞其功
漢中尉王溫舒は悪をきわめ、その為すところは先んじて漢右内史義縦に言わず、漢右内史義縦は必ず気を以ってこれを凌(しの)ぎ、その功を敗(やぶ)り壊(こわ)した。
其治所誅殺甚多然取為小治姦益不勝直指始出矣
その治(ち)は、誅殺するところは甚(はなは)だ多く、然(しか)るにとるにたらない治(ち)を為すを取って、不正はますますおさえられず、直指が出始めた。
吏之治以斬殺縛束為務閻奉以惡用矣縱廉其治放郅都
役人の治(ち)は、斬殺、縛束を以って務(つと)めと為し、村里は奉(たてまつ)るに悪を以って用いた。漢右内史義縦は廉潔(れんけつ)で、その治(ち)は郅都(人名)を模倣(もほう)した。
上幸鼎湖病久已而卒起幸甘泉道多不治
上(漢孝武帝劉徹)は鼎湖に行き、病にかかって久しく、しばらくしてにわかに起き上がって甘泉に行き、道の多くがととのっていなかった。
上怒曰縱以我為不復行此道乎嗛之
上(漢孝武帝劉徹)は怒って曰く、「義縦は我(われ)がこの道をいくことがふたたびないと思ったのか?」と、これをうらんだ。
至冬楊可方受告緡縱以為此亂民部吏捕其為可使者
冬に至り、揚可がまさに告緡令を授(さず)けんとし、漢右内史義縦はこれが民を乱すと思い、役人を配置してその楊可の使者と為った者を捕(と)らえた。
天子聞使杜式治以為廢格沮事棄縱市後一歲張湯亦死
天子(漢孝武帝劉徹)は聞いて、杜式をつかわし取調べさせ、格令(かくれい)を廃(はい)して事(こと)をはばんだと為すを以って、義縦を棄市罪に処した。一年後、張湯もまた死んだ。
王溫舒者陽陵人也少時椎埋為姦
王温舒という者は、陽陵の人である。少年時に椎埋(ついまい うちころして埋めること)して不正をしていた。