光祿徐自為曰悲夫夫古有三族
光祿(官名)徐自為曰く、「悲しいかな、それ古(いにしえ)には三族が有り、
而王溫舒罪至同時而五族乎
しこうして、王温舒の罪は同時にして五族に至ってしまったか」と。
溫舒死家直累千金
王温舒が死んだとき、家にはもっぱら千金を積んでいた。
後數歲尹齊亦以淮陽都尉病死家直不滿五十金
数年後、尹斉もまた淮陽都尉を以って病死し、家にはわずかに五十金に満たなかった。
所誅滅淮陽甚多及死仇家欲燒其尸尸亡去歸葬
淮陽で誅滅(ちゅうめつ)したところは甚(はなは)だ多く、死ぬに及んで、仇(かたき)の家が
その屍(しかばね)を焼くことを欲したが、屍(しかばね)は逃れ去って帰り葬(ほうむ)られた。
自溫舒等以惡為治而郡守都尉
王温舒らより悪を以って治(ち)を為し、しこうして、郡守、都尉、
諸侯二千石欲為治者其治大抵盡放溫舒
諸侯、二千石は治(ち)を為す者を欲し、その治(ち)は大抵(たいてい)いことごとく王温舒を模倣(もほう)し、
而吏民益輕犯法盜賊滋起
しこうして吏民はますます法を犯(おか)すことを軽んじ、盗賊はますます起こった。
南陽有梅免白政楚有殷中杜少齊有徐勃
南陽に梅免、白政がおり、楚に殷中、杜少がおり、斉に徐勃がおり、
燕趙之有堅盧范生之屬
燕、趙の間に堅盧、范生の仲間が有った。
大群至數千人擅自號攻城邑取庫兵
大群は数千人に至り、思うままに自ら号令して、城邑を攻(せ)め、武庫の兵器を取り、
釋死罪縛辱郡太守都尉殺二千石為檄告縣趣具食
死罪者を釈放(しゃくほう)し、郡太守、都尉を縛(しば)り辱(はずかし)め、二千石を殺し、ふれぶみを作り県に告げて酒食を催促(さいそく)した。
小群以百數掠鹵鄉里者不可勝數也
小さい群れは百を以って数え、鄉里でかすめとる者は数えあげることはできなかったのである。
於是天子始使御史中丞丞相長史督之
ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)は御史中丞、丞相長史をつかわしこれを見張らせ始(はじ)めた。
猶弗能禁也乃使光祿大夫范昆
猶(なお)禁ずることができず、そこで、光祿大夫范昆、
諸輔都尉及故九卿張等衣繡衣持節
諸輔都尉及び、前の九卿の張らをつかわし、繡衣(刺繍のある美しい衣)を着せて、旗、
虎符發兵以興擊斬首大部或至萬餘級
虎符(とらふ)を持たせ、兵を発し撃つを盛んにするを以ってし、首を斬り、大部隊の或(あ)るものは一万余級をあげるに至った。
及以法誅通飲食坐連諸郡甚者數千人
法を以って飲食に通じたものを誅するに及んで、諸(もろもろ)の郡に連(つら)なって罪を問い、甚だしいものは数千人になった。
數歲乃頗得其渠率散卒失亡
数年して、すなわち頗(すこぶ)るその悪者の頭(かしら)をつかまえた。兵を散(さん)じて失い逃し、
復聚黨阻山川者往往而群居無可柰何
ふたたぶ山、川に阻(はば)まれて党を集める者は、往々(おうおう)にして、群れて居(きょ)し、
どうすることもできなかった。
於是作沈命法曰群盜起不發覺
ここに於いて「「沈命法」を作り、曰く、群盗が起こっても発覚しなかったり、
發覺而捕弗滿品者二千石以下至小吏主者皆死
発覚して品に満たない者を捕(と)らえれば、二千石以下小吏主に至るまでの者は皆(みな)死刑である、と。
其後小吏畏誅雖有盜不敢發恐不能得
その後、小役人は誅を畏(おそ)れ、盗みが有ると雖(いえど)も敢(あ)えて口に出さず、つかまえることができずに、
坐課累府府亦使其不言故盜賊寖多
府に累(るい とらえる)を課(か)して罪に問われることを恐れ、府もまたその言わないようにさせた。故(ゆえ)に盗賊はますます多くなっていった。
上下相為匿以文辭避法焉
上も下も相(あい)隠匿(いんとく)を為し、文辞を以って法を避(さ)けた。
減宣者楊人也
減宣という者は楊の人である。
以佐史無害給事河東守府
佐史を以って害無く、河東守府で給事(官職名)した。
衛將軍青使買馬河東見宣無害言上徵為大廐丞
漢将軍衛青が河東で馬を買わせ、減宣を無害と見て、言上し、召されて大廐丞と為った。
官事辨稍遷至御史及中丞
官の仕事はうまくゆき、次第に遷(うつ)されて御史及び中丞に至った。
使治主父偃及治淮南反獄所以微文深詆
主父偃を取り調べさせ、及び淮南の謀反の獄を取り調べさせ、些細な法文を以って深くとがめて
殺者甚眾稱為敢決疑
殺したところの者は甚(はなは)だ多く、称(しょう)されて勇敢に疑いを議決したと為された。
數廢數起為御史及中丞者幾二十歲
たびたび廃され、たびたび起こされ、御史及び中丞に為ったのは、ほとんど二十年。
王溫舒免中尉而宣為左內史
王温舒が中尉を免ぜられて、しこうして減宣は左内史と為った。
光祿(官名)徐自為曰く、「悲しいかな、それ古(いにしえ)には三族が有り、
而王溫舒罪至同時而五族乎
しこうして、王温舒の罪は同時にして五族に至ってしまったか」と。
溫舒死家直累千金
王温舒が死んだとき、家にはもっぱら千金を積んでいた。
後數歲尹齊亦以淮陽都尉病死家直不滿五十金
数年後、尹斉もまた淮陽都尉を以って病死し、家にはわずかに五十金に満たなかった。
所誅滅淮陽甚多及死仇家欲燒其尸尸亡去歸葬
淮陽で誅滅(ちゅうめつ)したところは甚(はなは)だ多く、死ぬに及んで、仇(かたき)の家が
その屍(しかばね)を焼くことを欲したが、屍(しかばね)は逃れ去って帰り葬(ほうむ)られた。
自溫舒等以惡為治而郡守都尉
王温舒らより悪を以って治(ち)を為し、しこうして、郡守、都尉、
諸侯二千石欲為治者其治大抵盡放溫舒
諸侯、二千石は治(ち)を為す者を欲し、その治(ち)は大抵(たいてい)いことごとく王温舒を模倣(もほう)し、
而吏民益輕犯法盜賊滋起
しこうして吏民はますます法を犯(おか)すことを軽んじ、盗賊はますます起こった。
南陽有梅免白政楚有殷中杜少齊有徐勃
南陽に梅免、白政がおり、楚に殷中、杜少がおり、斉に徐勃がおり、
燕趙之有堅盧范生之屬
燕、趙の間に堅盧、范生の仲間が有った。
大群至數千人擅自號攻城邑取庫兵
大群は数千人に至り、思うままに自ら号令して、城邑を攻(せ)め、武庫の兵器を取り、
釋死罪縛辱郡太守都尉殺二千石為檄告縣趣具食
死罪者を釈放(しゃくほう)し、郡太守、都尉を縛(しば)り辱(はずかし)め、二千石を殺し、ふれぶみを作り県に告げて酒食を催促(さいそく)した。
小群以百數掠鹵鄉里者不可勝數也
小さい群れは百を以って数え、鄉里でかすめとる者は数えあげることはできなかったのである。
於是天子始使御史中丞丞相長史督之
ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)は御史中丞、丞相長史をつかわしこれを見張らせ始(はじ)めた。
猶弗能禁也乃使光祿大夫范昆
猶(なお)禁ずることができず、そこで、光祿大夫范昆、
諸輔都尉及故九卿張等衣繡衣持節
諸輔都尉及び、前の九卿の張らをつかわし、繡衣(刺繍のある美しい衣)を着せて、旗、
虎符發兵以興擊斬首大部或至萬餘級
虎符(とらふ)を持たせ、兵を発し撃つを盛んにするを以ってし、首を斬り、大部隊の或(あ)るものは一万余級をあげるに至った。
及以法誅通飲食坐連諸郡甚者數千人
法を以って飲食に通じたものを誅するに及んで、諸(もろもろ)の郡に連(つら)なって罪を問い、甚だしいものは数千人になった。
數歲乃頗得其渠率散卒失亡
数年して、すなわち頗(すこぶ)るその悪者の頭(かしら)をつかまえた。兵を散(さん)じて失い逃し、
復聚黨阻山川者往往而群居無可柰何
ふたたぶ山、川に阻(はば)まれて党を集める者は、往々(おうおう)にして、群れて居(きょ)し、
どうすることもできなかった。
於是作沈命法曰群盜起不發覺
ここに於いて「「沈命法」を作り、曰く、群盗が起こっても発覚しなかったり、
發覺而捕弗滿品者二千石以下至小吏主者皆死
発覚して品に満たない者を捕(と)らえれば、二千石以下小吏主に至るまでの者は皆(みな)死刑である、と。
其後小吏畏誅雖有盜不敢發恐不能得
その後、小役人は誅を畏(おそ)れ、盗みが有ると雖(いえど)も敢(あ)えて口に出さず、つかまえることができずに、
坐課累府府亦使其不言故盜賊寖多
府に累(るい とらえる)を課(か)して罪に問われることを恐れ、府もまたその言わないようにさせた。故(ゆえ)に盗賊はますます多くなっていった。
上下相為匿以文辭避法焉
上も下も相(あい)隠匿(いんとく)を為し、文辞を以って法を避(さ)けた。
減宣者楊人也
減宣という者は楊の人である。
以佐史無害給事河東守府
佐史を以って害無く、河東守府で給事(官職名)した。
衛將軍青使買馬河東見宣無害言上徵為大廐丞
漢将軍衛青が河東で馬を買わせ、減宣を無害と見て、言上し、召されて大廐丞と為った。
官事辨稍遷至御史及中丞
官の仕事はうまくゆき、次第に遷(うつ)されて御史及び中丞に至った。
使治主父偃及治淮南反獄所以微文深詆
主父偃を取り調べさせ、及び淮南の謀反の獄を取り調べさせ、些細な法文を以って深くとがめて
殺者甚眾稱為敢決疑
殺したところの者は甚(はなは)だ多く、称(しょう)されて勇敢に疑いを議決したと為された。
數廢數起為御史及中丞者幾二十歲
たびたび廃され、たびたび起こされ、御史及び中丞に為ったのは、ほとんど二十年。
王溫舒免中尉而宣為左內史
王温舒が中尉を免ぜられて、しこうして減宣は左内史と為った。