Quantcast
Channel: 倭人伝を解く
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2176

光祿徐自為曰悲夫夫古有三族

$
0
0
光祿徐自為曰悲夫夫古有三族

光祿(官名)徐自為曰く、「悲しいかな、それ古(いにしえ)には三族が有り、

而王溫舒罪至同時而五族乎

しこうして、王温舒の罪は同時にして五族に至ってしまったか」と。

溫舒死家直累千金

王温舒が死んだとき、家にはもっぱら千金を積んでいた。

後數歲尹齊亦以淮陽都尉病死家直不滿五十金

数年後、尹斉もまた淮陽都尉を以って病死し、家にはわずかに五十金に満たなかった。

所誅滅淮陽甚多及死仇家欲燒其尸尸亡去歸葬

淮陽で誅滅(ちゅうめつ)したところは甚(はなは)だ多く、死ぬに及んで、仇(かたき)の家が
その屍(しかばね)を焼くことを欲したが、屍(しかばね)は逃れ去って帰り葬(ほうむ)られた。

自溫舒等以惡為治而郡守都尉

王温舒らより悪を以って治(ち)を為し、しこうして、郡守、都尉、

諸侯二千石欲為治者其治大抵盡放溫舒

諸侯、二千石は治(ち)を為す者を欲し、その治(ち)は大抵(たいてい)いことごとく王温舒を模倣(もほう)し、

而吏民益輕犯法盜賊滋起

しこうして吏民はますます法を犯(おか)すことを軽んじ、盗賊はますます起こった。

南陽有梅免白政楚有殷中杜少齊有徐勃

南陽に梅免、白政がおり、楚に殷中、杜少がおり、斉に徐勃がおり、

燕趙之有堅盧范生之屬

燕、趙の間に堅盧、范生の仲間が有った。

大群至數千人擅自號攻城邑取庫兵

大群は数千人に至り、思うままに自ら号令して、城邑を攻(せ)め、武庫の兵器を取り、

釋死罪縛辱郡太守都尉殺二千石為檄告縣趣具食

死罪者を釈放(しゃくほう)し、郡太守、都尉を縛(しば)り辱(はずかし)め、二千石を殺し、ふれぶみを作り県に告げて酒食を催促(さいそく)した。

小群以百數掠鹵鄉里者不可勝數也

小さい群れは百を以って数え、鄉里でかすめとる者は数えあげることはできなかったのである。

於是天子始使御史中丞丞相長史督之

ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)は御史中丞、丞相長史をつかわしこれを見張らせ始(はじ)めた。

猶弗能禁也乃使光祿大夫范昆

猶(なお)禁ずることができず、そこで、光祿大夫范昆、

諸輔都尉及故九卿張等衣繡衣持節

諸輔都尉及び、前の九卿の張らをつかわし、繡衣(刺繍のある美しい衣)を着せて、旗、

虎符發兵以興擊斬首大部或至萬餘級

虎符(とらふ)を持たせ、兵を発し撃つを盛んにするを以ってし、首を斬り、大部隊の或(あ)るものは一万余級をあげるに至った。

及以法誅通飲食坐連諸郡甚者數千人

法を以って飲食に通じたものを誅するに及んで、諸(もろもろ)の郡に連(つら)なって罪を問い、甚だしいものは数千人になった。

數歲乃頗得其渠率散卒失亡

数年して、すなわち頗(すこぶ)るその悪者の頭(かしら)をつかまえた。兵を散(さん)じて失い逃し、

復聚黨阻山川者往往而群居無可柰何

ふたたぶ山、川に阻(はば)まれて党を集める者は、往々(おうおう)にして、群れて居(きょ)し、
どうすることもできなかった。

於是作沈命法曰群盜起不發覺

ここに於いて「「沈命法」を作り、曰く、群盗が起こっても発覚しなかったり、

發覺而捕弗滿品者二千石以下至小吏主者皆死

発覚して品に満たない者を捕(と)らえれば、二千石以下小吏主に至るまでの者は皆(みな)死刑である、と。

其後小吏畏誅雖有盜不敢發恐不能得

その後、小役人は誅を畏(おそ)れ、盗みが有ると雖(いえど)も敢(あ)えて口に出さず、つかまえることができずに、

坐課累府府亦使其不言故盜賊寖多

府に累(るい とらえる)を課(か)して罪に問われることを恐れ、府もまたその言わないようにさせた。故(ゆえ)に盗賊はますます多くなっていった。

上下相為匿以文辭避法焉

上も下も相(あい)隠匿(いんとく)を為し、文辞を以って法を避(さ)けた。

減宣者楊人也

減宣という者は楊の人である。

以佐史無害給事河東守府

佐史を以って害無く、河東守府で給事(官職名)した。

衛將軍青使買馬河東見宣無害言上徵為大廐丞

漢将軍衛青が河東で馬を買わせ、減宣を無害と見て、言上し、召されて大廐丞と為った。

官事辨稍遷至御史及中丞

官の仕事はうまくゆき、次第に遷(うつ)されて御史及び中丞に至った。

使治主父偃及治淮南反獄所以微文深詆

主父偃を取り調べさせ、及び淮南の謀反の獄を取り調べさせ、些細な法文を以って深くとがめて

殺者甚眾稱為敢決疑

殺したところの者は甚(はなは)だ多く、称(しょう)されて勇敢に疑いを議決したと為された。

數廢數起為御史及中丞者幾二十歲

たびたび廃され、たびたび起こされ、御史及び中丞に為ったのは、ほとんど二十年。

王溫舒免中尉而宣為左內史

王温舒が中尉を免ぜられて、しこうして減宣は左内史と為った。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2176

Trending Articles