魯朱家者與高祖同時
魯の朱家という者は高祖(劉邦)と同じ時代の者である。
魯人皆以儒教而朱家用俠聞
魯人は皆(みな)、儒教を以ってしたが、朱家は俠を用いて聞こえがあった。
所藏活豪士以百數其餘庸人不可勝言
かかえるところの活(い)きのいい強い士は百を以って数え、その残りの雇い人はすべて言うことができない。
然終不伐其能歆其諸所嘗施唯恐見之
然(しか)るに終いまでその能力をほこらず、その徳をほこらず(歆(きん)=矜(きん)?)、諸(もろもろ)の嘗(かつ)て施(ほどこ)したところは、ただこれに見(まみ)えることを恐れた。
振人不贍先從貧賤始家無餘財
人にほどこして多くはないが、先んじて貧賤より始めた。家には余分な財は無かった。
衣不完采食不重味乘不過軥牛
衣(ころも)は彩(いろど)りがそなわっておらず、食事は味を重んじず、乗車は牛を軥(くびき)にかけてひかせるに過ぎなかった。
專趨人之急甚己之私既陰脫季布將軍之阸
専(もっぱ)ら、人の急(さしせまり)に走りおもむき、甚(はなは)だ己(おのれ)の身内のようにした。既(すで)にひそかに李布将軍の阸(行き詰ること)から脱させ、
及布尊貴終身不見也
李布将軍が尊貴に及んで、身を終えるまで見(まみ)えなかった。
自關以東莫不延頸願交焉
関より以東は、首をのばして交(まじ)わりを願わないものはなかったのである。
楚田仲以俠聞喜劍父事朱家自以為行弗及
楚の田仲は俠を以って聞こえ、剣を喜び、父は朱家に仕(つか)え、自ら行いは及ばないと思った。
田仲已死而雒陽有劇孟
田仲がすでに死に、しこうして、雒陽に劇孟がいた。
周人以商賈為資而劇孟以任俠顯諸侯
周人は商売を以って資と為したが、劇孟は任俠を以って諸侯に顕(あきら)かになった。
吳楚反時條侯為太尉乘傳車將至河南得劇孟喜曰
呉楚の反乱時、條侯周亞夫が太尉に為り、伝車に乗ってまさに河南に至らんとしたとき、劇孟を得て、喜んで曰く、
吳楚舉大事而不求孟吾知其無能為已矣
「呉、楚は大事を挙(あ)げながら、劇孟を求めなかった。吾(われ)はその為すことができないことを知るのみである」と。
天下騷動宰相得之若得一敵國云
天下が騒動して、宰相はこれを得て一敵国を得たがごとくしたという。
劇孟行大類朱家而好博多少年之戲
劇孟の行いは大いに朱家に似て、博打(ばくち)を好み、少年の戯(たわむ)れごとを多(た)とした。
然劇孟母死自遠方送喪蓋千乘
然(しか)るに劇孟の母が死んだとき、遠方より喪(も)を送るは、蓋車(おおいのある車)一千台であった。
及劇孟死家無餘十金之財
劇孟が死ぬに及んで、家には残り十金の財も無かった。
而符離人王孟亦以俠稱江淮之
しこうして、符離人王孟もまた俠を以って江淮の間で称(たた)えられた。
是時濟南瞷氏陳周庸亦以豪聞
この時、済南の瞷氏、陳の周庸もまた豪を以って聞こえがあった。
景帝聞之使使盡誅此屬
漢孝景帝劉啓がこれを聞き、使者をつかわしてことごとくこれらの属を誅(ちゅう)させた。
其後代諸白梁韓無辟
その後、代の諸白、梁の韓無辟、
陽翟薛兄陜韓孺紛紛復出焉
陽翟の薛兄、陜の韓孺が紛紛(ふんぷん)と入り乱れてふたたび出現した。
魯の朱家という者は高祖(劉邦)と同じ時代の者である。
魯人皆以儒教而朱家用俠聞
魯人は皆(みな)、儒教を以ってしたが、朱家は俠を用いて聞こえがあった。
所藏活豪士以百數其餘庸人不可勝言
かかえるところの活(い)きのいい強い士は百を以って数え、その残りの雇い人はすべて言うことができない。
然終不伐其能歆其諸所嘗施唯恐見之
然(しか)るに終いまでその能力をほこらず、その徳をほこらず(歆(きん)=矜(きん)?)、諸(もろもろ)の嘗(かつ)て施(ほどこ)したところは、ただこれに見(まみ)えることを恐れた。
振人不贍先從貧賤始家無餘財
人にほどこして多くはないが、先んじて貧賤より始めた。家には余分な財は無かった。
衣不完采食不重味乘不過軥牛
衣(ころも)は彩(いろど)りがそなわっておらず、食事は味を重んじず、乗車は牛を軥(くびき)にかけてひかせるに過ぎなかった。
專趨人之急甚己之私既陰脫季布將軍之阸
専(もっぱ)ら、人の急(さしせまり)に走りおもむき、甚(はなは)だ己(おのれ)の身内のようにした。既(すで)にひそかに李布将軍の阸(行き詰ること)から脱させ、
及布尊貴終身不見也
李布将軍が尊貴に及んで、身を終えるまで見(まみ)えなかった。
自關以東莫不延頸願交焉
関より以東は、首をのばして交(まじ)わりを願わないものはなかったのである。
楚田仲以俠聞喜劍父事朱家自以為行弗及
楚の田仲は俠を以って聞こえ、剣を喜び、父は朱家に仕(つか)え、自ら行いは及ばないと思った。
田仲已死而雒陽有劇孟
田仲がすでに死に、しこうして、雒陽に劇孟がいた。
周人以商賈為資而劇孟以任俠顯諸侯
周人は商売を以って資と為したが、劇孟は任俠を以って諸侯に顕(あきら)かになった。
吳楚反時條侯為太尉乘傳車將至河南得劇孟喜曰
呉楚の反乱時、條侯周亞夫が太尉に為り、伝車に乗ってまさに河南に至らんとしたとき、劇孟を得て、喜んで曰く、
吳楚舉大事而不求孟吾知其無能為已矣
「呉、楚は大事を挙(あ)げながら、劇孟を求めなかった。吾(われ)はその為すことができないことを知るのみである」と。
天下騷動宰相得之若得一敵國云
天下が騒動して、宰相はこれを得て一敵国を得たがごとくしたという。
劇孟行大類朱家而好博多少年之戲
劇孟の行いは大いに朱家に似て、博打(ばくち)を好み、少年の戯(たわむ)れごとを多(た)とした。
然劇孟母死自遠方送喪蓋千乘
然(しか)るに劇孟の母が死んだとき、遠方より喪(も)を送るは、蓋車(おおいのある車)一千台であった。
及劇孟死家無餘十金之財
劇孟が死ぬに及んで、家には残り十金の財も無かった。
而符離人王孟亦以俠稱江淮之
しこうして、符離人王孟もまた俠を以って江淮の間で称(たた)えられた。
是時濟南瞷氏陳周庸亦以豪聞
この時、済南の瞷氏、陳の周庸もまた豪を以って聞こえがあった。
景帝聞之使使盡誅此屬
漢孝景帝劉啓がこれを聞き、使者をつかわしてことごとくこれらの属を誅(ちゅう)させた。
其後代諸白梁韓無辟
その後、代の諸白、梁の韓無辟、
陽翟薛兄陜韓孺紛紛復出焉
陽翟の薛兄、陜の韓孺が紛紛(ふんぷん)と入り乱れてふたたび出現した。