孝景帝時中無寵臣然獨郎中令周文仁仁寵最過庸乃不甚篤
漢孝景帝時中には、寵臣は無く、然(しか)るに一人、郎中令の周文仁で漢郎中令周文仁の寵が普通より最も越えていただけで、すなわち甚(はなは)だ篤(あつ)くはなかった。
今天子中寵臣士人則韓王孫嫣宦者則李延年
今、天子(漢孝武帝劉徹)中の寵臣の、士人はすなわち韓王孫の韓嫣、宦者はすなわち李延年。
嫣者弓高侯孽孫也今上為膠東王時嫣與上學書相愛
韓嫣という者は、弓高侯韓頽当(韓王信の子)の庶孫である。今上(漢孝武帝劉徹)が膠東王に為っていた時、韓嫣は上(漢孝武帝劉徹)と書を学び互いに愛した。
及上為太子愈益親嫣嫣善騎射善佞
上(漢孝武帝劉徹)が漢太子に為ったとき、愈々(いよいよ)益々(ますます)韓嫣と親しくなった。
韓嫣は騎射が上手く、おもねることが上手かった。
上即位欲事伐匈奴而嫣先習胡兵
上(漢孝武帝劉徹)が即位すると、匈奴を討(う)つ事を欲し、しこうして、韓嫣が先んじて匈奴の戦いに習熟していたので、
以故益尊貴官至上大夫賞賜擬於通
故(ゆえ)を以って益々(ますます)尊貴になり、官は上大夫に至り、賞賜は通に準(じゅん)じた。
時嫣常與上臥起江都王入朝有詔得從入獵上林中
時に漢上大夫韓嫣は常(つね)に上(漢孝武帝劉徹)とともに寝起きした。江都王劉非が入朝し、詔(みことのり)が有って上林中に猟(りょう)に入るに従うことを得た。
天子車駕蹕道未行而先使嫣乘副車從數十百騎騖馳視獸
天子(漢孝武帝劉徹)は馬車に乗って、道を先払いして未(ま)だ行かないうちに、しこうして先んじて
漢上大夫韓嫣をして副車に乗らせ、数十百騎を従えさせて、急いで馳(は)せて獣(けもの)を視(み)させた。
江都王望見以為天子辟從者伏謁道傍嫣驅不見
江都王劉非は望み見て、天子(漢孝武帝劉徹)であると思い、従者をしりぞけて、道の傍(かたわ)らに伏(ふ)して申し上げた。漢上大夫韓嫣は見(まみ)えなかった。
既過江都王怒為皇太后泣曰
すでに通り過ぎると、江都王は怒り、皇太后に泣いて曰く、
請得歸國入宿衛比韓嫣太后由此嗛嫣
「国を帰して宿衛に入るを得て 韓嫣に倣(なら)いたい」と。 皇太后はこれに由(よ)り漢上大夫韓嫣をうらんだ。
嫣侍上出入永巷不禁以姦聞皇太后
漢上大夫韓嫣が上(漢孝武帝劉徹)に侍(はべ)るとき、後宮での出入りは禁じず、不正を以って皇太后に聞こえた。
皇太后怒使使賜嫣死
皇太后は怒り、使者をつかわし漢上大夫韓嫣に死を賜(たま)わった。
上為謝終不能得嫣遂死
上(漢孝武帝劉徹)は謝(あやま)ったが、とうとう得ることができず、漢上大夫韓嫣は遂(つい)に死んだ。
而案道侯韓說其弟也亦佞幸
しこうして案道侯韓説は、その弟であり、またおもねってかわいがられた。
李延年中山人也
李延年は中山の人である。
父母及身兄弟及女皆故倡也
父母及び自身、兄弟、及び姉妹は皆(みな)以前は芸人であった。
延年坐法腐給事狗中
李延年は法に罪を問われて腐刑に処され、狗中で給事(きゅうじ)した。
而平陽公主言延年女弟善舞上見心說之
しこうして、平陽公主が李延年の妹が舞いが上手いと言い、上(漢孝武帝劉徹)が見(まみ)え、心からこれを悦(よろこ)んだ。
及入永巷而召貴延年
後宮に入るに及んで、しこうして、李延年を召し寄せて貴(とうと)んだ。
延年善歌為變新聲而上方興天地祠欲造樂詩歌弦之
李延年は歌が上手く、変わっていて新しい歌声でうたい、しこうして上(漢孝武帝劉徹)はまさに天地の祭祀を盛んにせんとして、弦楽器にあわせて歌う楽詩を造(つく)ろうと欲した。
延年善承意弦次初詩其女弟亦幸有子男
李延年は善(よ)く意(い)を承(うけたまわ)り、弦(げん)は詩を初(はじ)めにして次(つ)いだ。その妹もまたかわいがられ、男の子が有った。
延年佩二千石印號協聲律
李延年は二千石の印を佩(お)び、協声律と号した。
與上臥起甚貴幸埒如韓嫣也
上(漢孝武帝劉徹)ととも寝起きし、甚はなは)だ貴(とうと)ばれかわいがられ、韓嫣の如(ごと)くとひとしかったのである。
久之寖與中人亂出入驕恣
しばらくして、ますます中人(宦官)と乱れ、出入りは驕(おご)り思うままになっていった。
及其女弟李夫人卒后愛弛則禽誅延年昆弟也
その妹の李夫人が亡くなった後に及んで、愛が弛(ゆる)み、すなわち李延年、兄弟を擒(とりこ)にして誅(ちゅう)したのである。
漢孝景帝時中には、寵臣は無く、然(しか)るに一人、郎中令の周文仁で漢郎中令周文仁の寵が普通より最も越えていただけで、すなわち甚(はなは)だ篤(あつ)くはなかった。
今天子中寵臣士人則韓王孫嫣宦者則李延年
今、天子(漢孝武帝劉徹)中の寵臣の、士人はすなわち韓王孫の韓嫣、宦者はすなわち李延年。
嫣者弓高侯孽孫也今上為膠東王時嫣與上學書相愛
韓嫣という者は、弓高侯韓頽当(韓王信の子)の庶孫である。今上(漢孝武帝劉徹)が膠東王に為っていた時、韓嫣は上(漢孝武帝劉徹)と書を学び互いに愛した。
及上為太子愈益親嫣嫣善騎射善佞
上(漢孝武帝劉徹)が漢太子に為ったとき、愈々(いよいよ)益々(ますます)韓嫣と親しくなった。
韓嫣は騎射が上手く、おもねることが上手かった。
上即位欲事伐匈奴而嫣先習胡兵
上(漢孝武帝劉徹)が即位すると、匈奴を討(う)つ事を欲し、しこうして、韓嫣が先んじて匈奴の戦いに習熟していたので、
以故益尊貴官至上大夫賞賜擬於通
故(ゆえ)を以って益々(ますます)尊貴になり、官は上大夫に至り、賞賜は通に準(じゅん)じた。
時嫣常與上臥起江都王入朝有詔得從入獵上林中
時に漢上大夫韓嫣は常(つね)に上(漢孝武帝劉徹)とともに寝起きした。江都王劉非が入朝し、詔(みことのり)が有って上林中に猟(りょう)に入るに従うことを得た。
天子車駕蹕道未行而先使嫣乘副車從數十百騎騖馳視獸
天子(漢孝武帝劉徹)は馬車に乗って、道を先払いして未(ま)だ行かないうちに、しこうして先んじて
漢上大夫韓嫣をして副車に乗らせ、数十百騎を従えさせて、急いで馳(は)せて獣(けもの)を視(み)させた。
江都王望見以為天子辟從者伏謁道傍嫣驅不見
江都王劉非は望み見て、天子(漢孝武帝劉徹)であると思い、従者をしりぞけて、道の傍(かたわ)らに伏(ふ)して申し上げた。漢上大夫韓嫣は見(まみ)えなかった。
既過江都王怒為皇太后泣曰
すでに通り過ぎると、江都王は怒り、皇太后に泣いて曰く、
請得歸國入宿衛比韓嫣太后由此嗛嫣
「国を帰して宿衛に入るを得て 韓嫣に倣(なら)いたい」と。 皇太后はこれに由(よ)り漢上大夫韓嫣をうらんだ。
嫣侍上出入永巷不禁以姦聞皇太后
漢上大夫韓嫣が上(漢孝武帝劉徹)に侍(はべ)るとき、後宮での出入りは禁じず、不正を以って皇太后に聞こえた。
皇太后怒使使賜嫣死
皇太后は怒り、使者をつかわし漢上大夫韓嫣に死を賜(たま)わった。
上為謝終不能得嫣遂死
上(漢孝武帝劉徹)は謝(あやま)ったが、とうとう得ることができず、漢上大夫韓嫣は遂(つい)に死んだ。
而案道侯韓說其弟也亦佞幸
しこうして案道侯韓説は、その弟であり、またおもねってかわいがられた。
李延年中山人也
李延年は中山の人である。
父母及身兄弟及女皆故倡也
父母及び自身、兄弟、及び姉妹は皆(みな)以前は芸人であった。
延年坐法腐給事狗中
李延年は法に罪を問われて腐刑に処され、狗中で給事(きゅうじ)した。
而平陽公主言延年女弟善舞上見心說之
しこうして、平陽公主が李延年の妹が舞いが上手いと言い、上(漢孝武帝劉徹)が見(まみ)え、心からこれを悦(よろこ)んだ。
及入永巷而召貴延年
後宮に入るに及んで、しこうして、李延年を召し寄せて貴(とうと)んだ。
延年善歌為變新聲而上方興天地祠欲造樂詩歌弦之
李延年は歌が上手く、変わっていて新しい歌声でうたい、しこうして上(漢孝武帝劉徹)はまさに天地の祭祀を盛んにせんとして、弦楽器にあわせて歌う楽詩を造(つく)ろうと欲した。
延年善承意弦次初詩其女弟亦幸有子男
李延年は善(よ)く意(い)を承(うけたまわ)り、弦(げん)は詩を初(はじ)めにして次(つ)いだ。その妹もまたかわいがられ、男の子が有った。
延年佩二千石印號協聲律
李延年は二千石の印を佩(お)び、協声律と号した。
與上臥起甚貴幸埒如韓嫣也
上(漢孝武帝劉徹)ととも寝起きし、甚はなは)だ貴(とうと)ばれかわいがられ、韓嫣の如(ごと)くとひとしかったのである。
久之寖與中人亂出入驕恣
しばらくして、ますます中人(宦官)と乱れ、出入りは驕(おご)り思うままになっていった。
及其女弟李夫人卒后愛弛則禽誅延年昆弟也
その妹の李夫人が亡くなった後に及んで、愛が弛(ゆる)み、すなわち李延年、兄弟を擒(とりこ)にして誅(ちゅう)したのである。