八月漢王舉兵東出陳倉定三秦
漢元年八月、漢王劉邦は兵を挙(あ)げて東に、三秦を平定しに陳倉に行った。
漢二年出關收魏河南韓殷王皆降
漢二年、関を出て魏(西魏王魏豹 項羽により河東に移され西魏王と為った 都は平陽)を収(おさ)め、河南王瑕丘申陽(前の楚将)韓王鄭昌(前の呉令) 殷王司馬卬(前の趙將)は皆(みな)降(くだ)った。
合齊趙共擊楚四月至彭城漢兵敗散而還
斉(斉王田広)、趙(趙王趙歇)を合わせ共(とも)に楚を撃(う)った。漢二年四月、彭城(西楚の都)に至った。漢兵は敗(やぶ)れて散りじりになり、還(かえ)った。
信復收兵與漢王會滎陽復擊破楚京索之
漢大将韓信はまた兵を収(おさ)めて、漢王劉邦と栄陽に会(かい)し、また楚の京、索の間(あいだ)を撃ち破(やぶ)った。
以故楚兵卒不能西
故(ゆえ)を以って楚の兵卒は西に進むことができなかった。
漢之敗卻彭城塞王欣翟王翳亡漢降楚
漢の彭城での敗却(はいきゃく)は、塞王司馬欣(もと秦将司馬欣)、翟王董翳(もと秦将董翳)は漢を逃げて楚に降(くだ)った。
齊趙亦反漢與楚和六月魏王豹謁歸視親疾
斉、趙もまた漢に叛(そむ)いて楚と和(わ)した。六月、西魏王魏豹が、親の病気の世話をしに帰ることを求めた。
至國即絕河關反漢與楚約和
国(西魏)に至ると、すぐに河の関(船着場の入り口)を絶(た)って、漢に叛(そむ)き、楚と約(やく)して和(わ)した。
漢王使酈生說豹不下其八月
漢王劉邦は酈生(酈食其)をつかわして西魏王魏豹に説(と)かせたが、下(くだ)らなかった。その八月、
以信為左丞相擊魏魏王盛兵蒲阪
漢大将韓信を以って左丞相と為し、西魏を撃(う)たせた。西魏王魏豹は蒲阪に兵を配置し、
塞臨晉信乃益為疑兵陳船欲度臨晉
臨晋を塞(ふさ)いた。漢左丞相韓信大将軍はそこでますます疑兵(敵をまどわすためのいつわりの兵)
を為して、船を並(なら)べて臨晋を渡(わた)ろうと欲しているようにみせかけ、
而伏兵從夏陽以木罌缻渡軍襲安邑
しこうして、伏兵(ふくへい)が夏陽から木製のかめを以って漢軍を渡(わた)し、安邑を襲(おそ)った。
魏王豹驚引兵迎信信遂虜豹定魏為河東郡
西魏王魏豹は驚(おどろ)き、兵を引いて漢左丞相韓信大将軍を迎(むか)え、漢左丞相韓信大将軍は遂(つい)に西魏王魏豹を虜(とりこ)にして、西魏を平定し、漢河東郡と為した。
漢元年八月、漢王劉邦は兵を挙(あ)げて東に、三秦を平定しに陳倉に行った。
漢二年出關收魏河南韓殷王皆降
漢二年、関を出て魏(西魏王魏豹 項羽により河東に移され西魏王と為った 都は平陽)を収(おさ)め、河南王瑕丘申陽(前の楚将)韓王鄭昌(前の呉令) 殷王司馬卬(前の趙將)は皆(みな)降(くだ)った。
合齊趙共擊楚四月至彭城漢兵敗散而還
斉(斉王田広)、趙(趙王趙歇)を合わせ共(とも)に楚を撃(う)った。漢二年四月、彭城(西楚の都)に至った。漢兵は敗(やぶ)れて散りじりになり、還(かえ)った。
信復收兵與漢王會滎陽復擊破楚京索之
漢大将韓信はまた兵を収(おさ)めて、漢王劉邦と栄陽に会(かい)し、また楚の京、索の間(あいだ)を撃ち破(やぶ)った。
以故楚兵卒不能西
故(ゆえ)を以って楚の兵卒は西に進むことができなかった。
漢之敗卻彭城塞王欣翟王翳亡漢降楚
漢の彭城での敗却(はいきゃく)は、塞王司馬欣(もと秦将司馬欣)、翟王董翳(もと秦将董翳)は漢を逃げて楚に降(くだ)った。
齊趙亦反漢與楚和六月魏王豹謁歸視親疾
斉、趙もまた漢に叛(そむ)いて楚と和(わ)した。六月、西魏王魏豹が、親の病気の世話をしに帰ることを求めた。
至國即絕河關反漢與楚約和
国(西魏)に至ると、すぐに河の関(船着場の入り口)を絶(た)って、漢に叛(そむ)き、楚と約(やく)して和(わ)した。
漢王使酈生說豹不下其八月
漢王劉邦は酈生(酈食其)をつかわして西魏王魏豹に説(と)かせたが、下(くだ)らなかった。その八月、
以信為左丞相擊魏魏王盛兵蒲阪
漢大将韓信を以って左丞相と為し、西魏を撃(う)たせた。西魏王魏豹は蒲阪に兵を配置し、
塞臨晉信乃益為疑兵陳船欲度臨晉
臨晋を塞(ふさ)いた。漢左丞相韓信大将軍はそこでますます疑兵(敵をまどわすためのいつわりの兵)
を為して、船を並(なら)べて臨晋を渡(わた)ろうと欲しているようにみせかけ、
而伏兵從夏陽以木罌缻渡軍襲安邑
しこうして、伏兵(ふくへい)が夏陽から木製のかめを以って漢軍を渡(わた)し、安邑を襲(おそ)った。
魏王豹驚引兵迎信信遂虜豹定魏為河東郡
西魏王魏豹は驚(おどろ)き、兵を引いて漢左丞相韓信大将軍を迎(むか)え、漢左丞相韓信大将軍は遂(つい)に西魏王魏豹を虜(とりこ)にして、西魏を平定し、漢河東郡と為した。