及秦文(孝)[]繆居雍隙隴蜀之貨物而多賈
秦文公、秦徳公、秦繆公は雍に居住し、隴蜀の貨物をうかがって商人が多い。
獻(孝)公徙櫟邑櫟邑北卻戎翟東通三晉亦多大賈
秦献公は櫟邑に移り、櫟邑は北に戎翟をうかがい、東に三晋に通じ、また大商人が多い。。
(武)[孝]昭治咸陽因以漢都長安諸陵
秦孝公、昭公は咸陽で治(おさ)め、因りて漢都、長安の諸陵を以って、
四方輻湊并至而會地小人眾故其民益玩巧而事末也
四方が輻湊(ふくそう)して並び至りて会(かい)した。地は小さく人が多く、故(ゆえ)にその民はますますなれ親しみ、ぬけめがなくなり商売を事(こと)としたのである。
南則巴蜀巴蜀亦沃野地饒炧薑丹沙石銅鐵竹木之器
南に進めば巴蜀で、巴蜀もまた肥沃(ひよく)な土地で、土地には炧、薑(しょうが)、丹沙(丹砂)、石、銅、鉄、竹、木の器が豊かで、
南御滇僰僰僮西近邛笮笮馬旄牛
南に滇、僰、僮に御(ぎょ)する。西は邛笮が近く、笮馬、旄牛がいる。
然四塞棧道千里無所不通唯褒斜綰轂其口以所多易所鮮
然(しか)るに四方が塞(ふさ)がり、桟道(さんどう)が千里に通じないところは無く、唯(ただ)褒斜道(褒(川名)斜(川名))はその出口に轂(車輪のこしき)をつないで、豊富にあるところを以って足らないところと交換した。
天水隴西北地上郡與關中同俗然西有羌中之利
天水、隴西、北地、上郡は関中と同俗(どうぞく)で、然(しか)るに西に羌(異民族名)中の利(り)が有り、
北有戎翟之畜畜牧為天下饒
北に戎翟(異民族名)の狗(いぬ 畜(休と同音でおそらく、く、と発音する)=狗(く)? 例えば翟犬など)が有り、畜牧は天下を豊かにした。
然地亦窮險唯京師要其道
然(しか)るに地もまたきわめて険阻(けんそ)で、ただ京師(みやこ)だけがその道を要(かなめ)にした。
故關中之地於天下三分之一而人眾不過什三
故(ゆえ)に関中(咸陽?)の地は天下に於いて三つに分けた一つ(雍、櫟邑、咸陽の三つ?)で、しこうして、人の多さは三割に過ぎず、
然量其富什居其六
然(しか)るにその富(とみ)を量(はか)るに、十のうちその六を占(し)めた。
秦文公、秦徳公、秦繆公は雍に居住し、隴蜀の貨物をうかがって商人が多い。
獻(孝)公徙櫟邑櫟邑北卻戎翟東通三晉亦多大賈
秦献公は櫟邑に移り、櫟邑は北に戎翟をうかがい、東に三晋に通じ、また大商人が多い。。
(武)[孝]昭治咸陽因以漢都長安諸陵
秦孝公、昭公は咸陽で治(おさ)め、因りて漢都、長安の諸陵を以って、
四方輻湊并至而會地小人眾故其民益玩巧而事末也
四方が輻湊(ふくそう)して並び至りて会(かい)した。地は小さく人が多く、故(ゆえ)にその民はますますなれ親しみ、ぬけめがなくなり商売を事(こと)としたのである。
南則巴蜀巴蜀亦沃野地饒炧薑丹沙石銅鐵竹木之器
南に進めば巴蜀で、巴蜀もまた肥沃(ひよく)な土地で、土地には炧、薑(しょうが)、丹沙(丹砂)、石、銅、鉄、竹、木の器が豊かで、
南御滇僰僰僮西近邛笮笮馬旄牛
南に滇、僰、僮に御(ぎょ)する。西は邛笮が近く、笮馬、旄牛がいる。
然四塞棧道千里無所不通唯褒斜綰轂其口以所多易所鮮
然(しか)るに四方が塞(ふさ)がり、桟道(さんどう)が千里に通じないところは無く、唯(ただ)褒斜道(褒(川名)斜(川名))はその出口に轂(車輪のこしき)をつないで、豊富にあるところを以って足らないところと交換した。
天水隴西北地上郡與關中同俗然西有羌中之利
天水、隴西、北地、上郡は関中と同俗(どうぞく)で、然(しか)るに西に羌(異民族名)中の利(り)が有り、
北有戎翟之畜畜牧為天下饒
北に戎翟(異民族名)の狗(いぬ 畜(休と同音でおそらく、く、と発音する)=狗(く)? 例えば翟犬など)が有り、畜牧は天下を豊かにした。
然地亦窮險唯京師要其道
然(しか)るに地もまたきわめて険阻(けんそ)で、ただ京師(みやこ)だけがその道を要(かなめ)にした。
故關中之地於天下三分之一而人眾不過什三
故(ゆえ)に関中(咸陽?)の地は天下に於いて三つに分けた一つ(雍、櫟邑、咸陽の三つ?)で、しこうして、人の多さは三割に過ぎず、
然量其富什居其六
然(しか)るにその富(とみ)を量(はか)るに、十のうちその六を占(し)めた。