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Channel: 倭人伝を解く
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昔者越王句踐困於會稽之上

昔者越王句踐困於會稽之上乃用范蠡計然 昔、越王句踐が会稽のほとりで困(こま)り、そこで范蠡(人名)、計然(人名)を用いた。 計然曰知斗則修備時用則知物 計然曰く、「ひしゃくを知れば、備(そな)えを修(おさ)め、用いるをうかがえば、物を知る。 二者形則萬貨之情可得而觀已故歲在金穰...

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范蠡既雪會稽之恥乃喟然而嘆曰

范蠡既雪會稽之恥乃喟然而嘆曰 范蠡がすでに会稽の恥(はじ)を雪(すす)ぎ、すなわち喟然(きぜん)としてため息をついて曰く、 計然之策七越用其五而得意 「計然の策(さく)は七つで、越はその五つを用いて、意を得た。 既已施於國吾欲用之家 すでに国に施(ほどこ)され、吾(われ)はこれを家に用いることを欲する」と。 乃乘扁舟浮於江湖變名易姓 そこで小舟(こぶね)に乗って江湖に浮かび、名を変え姓名を変えて、...

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白圭周人也

白圭周人也 白圭は周の人である。 當魏文侯時李克務盡地力 魏文侯魏斯の時に、李克が土地の生産力を尽(つ)くすことに務(つと)めるに当たり、 而白圭樂觀時變故人棄我取人取我與 しこうして、白圭は時の変化を観(み)ることを楽しみ、故(ゆえ)に人が棄(す)てたら我(われ)が取り、人が取ったら我(われ)が与(あた)えた。 夫歲孰取穀予之絲漆...

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猗頓用盬鹽起

猗頓用盬鹽起而邯鄲郭縱以鐵冶成業與王者埒富 猗頓は盬塩(こえん あらしお)を用いて身を起こした。しこうして邯鄲(趙の都)の周囲で 鉄冶(鉄鉱石を溶かし鉄をとりだすこと)を以って産業を成(な)すを思うままにして、王者と富(とみ)をひとしくした。 烏氏倮牧及眾斥賣求奇物獻遺戎王...

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及秦文(孝)[]繆居雍隙隴蜀之貨物而多賈

及秦文(孝)[]繆居雍隙隴蜀之貨物而多賈 秦文公、秦徳公、秦繆公は雍に居住し、隴蜀の貨物をうかがって商人が多い。 獻(孝)公徙櫟邑櫟邑北卻戎翟東通三晉亦多大賈 秦献公は櫟邑に移り、櫟邑は北に戎翟をうかがい、東に三晋に通じ、また大商人が多い。。 (武)[孝]昭治咸陽因以漢都長安諸陵 秦孝公、昭公は咸陽で治(おさ)め、因りて漢都、長安の諸陵を以って、 四方輻湊并至而會地小人眾故其民益玩巧而事末也...

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昔唐人都河東殷人都河內周人都河南

昔唐人都河東殷人都河內周人都河南 昔、唐人は河東を都(みやこ)にし、殷人は河内を都(みやこ)にし、周人は河南を都(みやこ)にした。 夫三河在天下之中若鼎足王者所更居也 それ、三河は天下の中心に在(あ)って、鼎(かなえ)の足(三本足)のごとく、王者が居を改めたところである。 建國各數百千歲土地小狹民人眾 建国して各(おのおの)数百千年、土地は小さく狭(せま)く、人民は多く、...

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然邯鄲亦漳河之一都會也

然邯鄲亦漳河之一都會也 然(しか)るに邯鄲(趙の都)もまた漳、河の間(あいだ)の一都会である。 北通燕涿南有鄭衛 北に燕、涿に通じ、南に鄭、衛が有る。 鄭衛俗與趙相類然近梁魯微重而矜節 鄭、衛の俗(ぞく)は趙と相(あい)類(るい)し、然(しか)るに梁、魯に近いので、かすかに礼節を重んじうやまう。 濮上之邑徙野王野王好氣任俠衛之風也...

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而鄒魯濱洙泗猶有周公遺風

而鄒魯濱洙泗猶有周公遺風 しこうして、鄒、魯濱洙、泗は猶(なお)周公旦の遺風(いふう)が有り、 俗好儒備於禮故其民齪齪 俗(ぞく)は儒を好(この)み礼を備(そな)え、故(ゆえ)にその民は齪齪とこせこせしている。 頗有桑麻之業無林澤之饒 頗(すこぶ)る桑(くわ 絹)麻(あさ)の仕事を有(ゆう)し、林沢の恵みは無い。 地小人眾儉嗇畏罪遠邪...

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而合肥受南北潮皮革鮑木輸會也

而合肥受南北潮皮革鮑木輸會也 しこうして合肥は南北の潮を受けて、皮革、鮑(塩づけの魚)、木材が輸送される要(かなめ)である。 與閩中干越雜俗故南楚好辭巧說少信閩中、干、越と俗を混(ま)ぜ、故(ゆえ)に南楚は辞を好み、説を巧(たく)みにして、信(まこと)が少ない。 江南卑溼丈夫早夭多竹木 江南は低く湿気があり、丈夫(一人前の男子)は早死にする。竹の木が多い。...

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由此觀之賢人深謀於廊廟

由此觀之賢人深謀於廊廟論議朝廷 これに由(よ)りこれを観(み)るに、賢人が廊廟に於いて深く謀(はか)り、朝廷で論議(ろんぎ)し、 守信死節隱居巖穴之士設為名高者安歸乎 信を守り節に死し、隠居(いんきょ)、巌穴の士が名高き者に為るを設(もう)けるは、いずこに帰(き)するのか? 歸於富厚也是以廉吏久久更富廉賈歸富...

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今夫趙女鄭姬設形容揳鳴琴揄長袂

今夫趙女鄭姬設形容揳鳴琴揄長袂 今、それ趙女、鄭姫は顔かたちをこしえら、琴(こと)を打ち鳴らし、長い袂(たもと)をひき、 躡利屣目挑心招出不遠千里不擇老少者奔富厚也 履(利(り)=履(り)?)をふみつけてつっかけて歩き、目は挑発(ちょうはつ)し心は誘(さそ)い、出かけるは千里も遠いとせず、老、少を択(えら)ばないのは、富厚(ふこう)に奔走(ほんそう)するからである。 游公子飾冠劍連車騎亦為富貴容也...

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安邑千樹棗燕秦千樹栗

安邑千樹棗燕秦千樹栗 安邑には千本の棗(なつめ)、燕、秦には千本の栗(くり)、 蜀漢江陵千樹橘 蜀、漢、江陵には千本の橘(みかん)、 淮北常山已南河濟之千樹萩 淮北、常山以南、河、済の間には千本の萩(はぎ)、 陳夏千畝漆齊魯千畝桑麻 陳、夏の千畝(うね 農地の広さの単位)の漆(うるし)、斉、魯の千畝の桑(くわ)麻(あさ)、 渭川千畝竹及名國萬家之城帶郭千畝畝鐘之田...

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然是富給之資也不窺市井不行異邑

然是富給之資也不窺市井不行異邑 然(しか)るにここに満ち足りて十分な資産が、市井(しせい)を窺(うかが)わず、異(こと)なる邑(むら)に行かず、 坐而待收身有處士之義而取給焉 坐(ざ)して収穫を待ち、身(み)ずからは処士(教養があっても官につかえない人)の義(ぎ)を有して供給を取る。 若至家貧親老妻子軟弱歲時無以祭祀進醵...

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凡編戶之民富相什則卑下之

凡編戶之民富相什則卑下之伯則畏憚之 凡(およ)そ、編戸の民(貧しい民)は、富(とみ)が十倍とみればこれに卑下(ひげ)し、百倍ならばこれを畏(おそ)れ憚(はばか)り、 千則役萬則仆物之理也 千倍ならば使役し、万倍ならば召使いになるのが物の理(り)である。 夫用貧求富農不如工工不如商 それ、貧を用いて富(とみ)を求めるならば、農は工におよばず、工は商におよばず、 刺繡文不如倚市門此言末業貧者之資也...

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馬蹄蹾千牛千足羊彘千雙

馬蹄蹾千牛千足羊彘千雙 馬の蹄(ひづめ)踆(ける 蹾=踆?)千(千頭?)、牛は千足(千頭?)、羊、彘(いのこ)は千匹?(雙=双はおそらく双蹄(ふたつに分かれた蹄 遇蹄目)の意?)、 僮手指千筋角丹沙千斤其帛絮細布千鈞 奴婢(ぬひ)の手指は千(千人?)、麇角(のろじかの角 筋(きん)=麇(きん)?)、丹沙(丹砂)は千斤、糸(其=糸?)、絹織物、、まわた、細布は千鈞、 文采千匹榻布皮革千石漆千斗...

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請略道當世千里之中賢人所以富者

請略道當世千里之中賢人所以富者 当世(とうせい)千里(せんり)の中の賢人が富(とみ)を以ってしたところの者を略して語ることを請(こ)う。 令後世得以觀擇焉 後世(こうせい)をして択(えら)び観(み)るを以ってすることを得さしめるだろう。 蜀卓氏之先趙人也用鐵冶富 蜀の卓氏の先祖は趙の人であり、鉄冶(てつや 鉄鉱石を溶かし鉄を取り出すこと)を用いて富(と)んだが、 秦破趙遷卓氏...

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齊俗賤奴虜而刀獨愛貴之

齊俗賤奴虜而刀獨愛貴之 斉の俗(ぞく)は賎(いや)しい奴虜で、しこうして刀間は独(ひと)りこれを愛し貴(とうと)んだ。 桀黠奴人之所患也唯刀收取 桀黠(けっかつ 悪知恵があって荒々しいこと)の奴は人の患(うれ)えるところであるが、唯(ただ)刀のみが収(おさ)め取り、 使之逐漁鹽商賈之利或連車騎 これをつかわして漁塩の商賈(しょうこ)の利(り)を追求させ、或(あ)るものは車騎を連(つら)ね、...

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塞之斥也唯橋姚

塞之斥也唯橋姚已致馬千匹牛倍之 国境地帯には、唯(ただ)橋姚のみがすでに馬千匹、牛はこれの倍(ばい)、 羊萬頭粟以萬鐘計吳楚七國兵起時 羊は一万頭、粟(あわ)は一万鍾(鐘(しょう)=鍾(しょう))を以って計上するを成し遂げた。 呉楚七国の戦いが起こった時、 長安中列侯封君行從軍旅齎貸子錢 長安中の列侯の封君は戦いに従いに行き、高利貸しに貸してもらおうと思った。...

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此其章章尤異者也

此其章章尤異者也皆非有爵邑奉祿弄法犯姦而富 これらはその章章(しょうしょう)と明らかに最もすぐれた者である。皆(みな)爵邑、奉祿が有って、法をもてあそび不正を犯して富(と)んだのではなく、 盡椎埋去就與時俯仰獲其贏利以末致財 去就(きょしゅう)を推理(すいり 椎埋=推理?)し尽くして、時とともに俯(うつむ)いたり仰(あお)むいたりして、その利益を獲(え)たのである。商を以って財を成し遂げれば、...

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史記 太史公自序 始め

昔在顓頊命南正重以司天北正黎以司地 昔、顓頊(せんぎょく 黄帝の孫 高陽氏)が在(あ)り、南正の重に命じて天(てん)を司(つかさど)らせ、北正の黎に命じて地(ち)を司(つかさど)らせた。 唐虞之際紹重黎之後使復典之 唐(陶唐 帝堯)、虞(有虞 帝舜)の際(さい)に、重、黎の後継を継承(けいしょう)し、ふたたびこれをつかさどらせた。 至于夏商故重黎氏世序天地...

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