信乃令軍中毋殺廣武君有能生得者購千金
漢左丞相韓信大将軍はそこで軍中に令(れい)した、広武君李左車を殺すことなかれ、生きたままつかまえることができた者が有れば、千金を購(あがな)う、と。
於是有縛廣武君而致戲下者信乃解其縛
ここに於いて、広武君李左車を縛(しば)って旗下に連れてきた者が有り、漢左丞相韓信大将軍はそこで、その縄(なわ)を解(と)き、
東鄉坐西鄉對師事之諸將效首虜
東に向って坐(すわ)らせ、西に向って対座し、これに師事(しじ)した。漢諸将は首級、虜(とりこ)をとどけ、
(休)畢賀因問信曰兵法右倍山陵
賀(が)し終わると、因(よ)りて漢左丞相韓信大将軍に問(と)うて曰く、「兵法(ひょうほう)では、山、丘を背(せ)にして輔佐(ほさ)させ、
前左水澤今者將軍令臣等反背水陳
前に川、沢を輔佐とすると。今回は、将軍はわたしたちに令しました、反対に川を背(せ)にして陣(じん)をしかせ、
曰破趙會食臣等不服然竟以勝此何術也
曰く、趙を破ったら会食しようと。わたしたちは不服(ふふく)でした。しかるにとうとう勝つを以ってしました。これ何の術(じゅつ)ですか?」と。
信曰此在兵法顧諸君不察耳
漢左丞相韓信大将軍曰く、「これは兵法(ひょうほう)に在(あ)る。思うに諸君らが調べていないだけだ。
兵法不曰陷之死地而後生置之亡地而後存
兵法(ひょうほう)にいわないか、『これを死地に陥(おとしい)れて後、生きる、これを亡(ほろ)ぶ地に置いて後、存(ながら)える』と。
且信非得素拊循士大夫也此所謂驅市人而戰之
且(か)つ、わたしは、普段から士大夫を慰撫(いぶ)し得ておらず、これ、所謂(いわゆる)、市の人を駆(か)りたててたたかわせる、ようなものである。
其勢非置之死地使人人自為戰
その情勢は、死地に置(お)いて、人々をして自(みずか)ら戦いを為させることをせずに、
今予之生地皆走寧尚可得而用之乎
今回、これに生地を与(あた)えたなら、皆(みな)逃げ走っただろう。どうして尚(なお)つかまえてこれを用(もち)いることができただろうか」と。
諸將皆服曰善非臣所及也
漢諸将は皆(みな)感服(かんぷく)して曰く、「さすがです。わたしたちの及(およ)ぶところではありません」と。
漢左丞相韓信大将軍はそこで軍中に令(れい)した、広武君李左車を殺すことなかれ、生きたままつかまえることができた者が有れば、千金を購(あがな)う、と。
於是有縛廣武君而致戲下者信乃解其縛
ここに於いて、広武君李左車を縛(しば)って旗下に連れてきた者が有り、漢左丞相韓信大将軍はそこで、その縄(なわ)を解(と)き、
東鄉坐西鄉對師事之諸將效首虜
東に向って坐(すわ)らせ、西に向って対座し、これに師事(しじ)した。漢諸将は首級、虜(とりこ)をとどけ、
(休)畢賀因問信曰兵法右倍山陵
賀(が)し終わると、因(よ)りて漢左丞相韓信大将軍に問(と)うて曰く、「兵法(ひょうほう)では、山、丘を背(せ)にして輔佐(ほさ)させ、
前左水澤今者將軍令臣等反背水陳
前に川、沢を輔佐とすると。今回は、将軍はわたしたちに令しました、反対に川を背(せ)にして陣(じん)をしかせ、
曰破趙會食臣等不服然竟以勝此何術也
曰く、趙を破ったら会食しようと。わたしたちは不服(ふふく)でした。しかるにとうとう勝つを以ってしました。これ何の術(じゅつ)ですか?」と。
信曰此在兵法顧諸君不察耳
漢左丞相韓信大将軍曰く、「これは兵法(ひょうほう)に在(あ)る。思うに諸君らが調べていないだけだ。
兵法不曰陷之死地而後生置之亡地而後存
兵法(ひょうほう)にいわないか、『これを死地に陥(おとしい)れて後、生きる、これを亡(ほろ)ぶ地に置いて後、存(ながら)える』と。
且信非得素拊循士大夫也此所謂驅市人而戰之
且(か)つ、わたしは、普段から士大夫を慰撫(いぶ)し得ておらず、これ、所謂(いわゆる)、市の人を駆(か)りたててたたかわせる、ようなものである。
其勢非置之死地使人人自為戰
その情勢は、死地に置(お)いて、人々をして自(みずか)ら戦いを為させることをせずに、
今予之生地皆走寧尚可得而用之乎
今回、これに生地を与(あた)えたなら、皆(みな)逃げ走っただろう。どうして尚(なお)つかまえてこれを用(もち)いることができただろうか」と。
諸將皆服曰善非臣所及也
漢諸将は皆(みな)感服(かんぷく)して曰く、「さすがです。わたしたちの及(およ)ぶところではありません」と。