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太史公執遷手而泣曰

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太史公執遷手而泣曰余先周室之太史也

太史公司馬談は司馬遷の手を執(と)って泣いて曰く、「わたしの先祖は周室の太史である。

自上世嘗顯功名於虞夏典天官事

上世よりつねに虞(帝舜の国)、夏(帝禹の国)に於いて功名を顕(あきら)かにして、天官の事をつかさどった。

後世中衰絕於予乎汝復為太史則續吾祖矣

後世中に衰(おとろ)え、わたしで絶(たI)やすのか?汝(なんじ)もまた太史と為れば、吾(わ)が祖先に続けられる。

今天子接千歲之統封泰山而余不得從行是命也夫命也夫

今、天子(漢孝武帝劉徹)は千年の統治を接(つ)ぎ、泰山に封をするが、わたしは従い行くことを得られなかった。これも運命であるのだろうかな、運命であるのだろうかな。

余死汝必為太史為太史無忘吾所欲論著矣

わたしが死んだら、汝(なんじ)は必ず太史に為り、太史に為ったら、吾(われ)が論じ著(あらわ)そうと欲したところを忘れること無かれ。

且夫孝始於事親中於事君終於立身

まさにそれ、孝は親(おや)に仕(つか)えることに始まり、君に仕(つか)えることを中頃で、身を立てることを終(しま)いにし、

揚名於後世以顯父母此孝之大者

名を後世に揚(あ)げ、父母を顕(あきら)かにするを以ってする、これが孝の大なる者だ。

夫天下稱誦周公言其能論歌文武之宣周邵之風

それ、天下は周公旦をほめたたえ、その、文武(周文王、周武王)の徳を歌い論じ、周邵(召公奭?召公奭は周召公とも呼ばれる)の風(威勢)を述(の)べて、

達太王王季之思慮爰及公劉以尊后稷也

太王(古公亶父)王季(季歴)の思慮に達し、そして公劉(后稷の曾孫)に及び、后稷を尊ぶを以ってすることができたことを言う。

幽之後王道缺禮樂衰孔子修舊起廢

周幽王、周王の後、王道は欠(か)けて、礼楽は衰(おとろ)え、孔子が旧を修(おさ)めて廃(廃(すた)れたもの)を起(お)こし、

論詩書作春秋則學者至今則之

詩書を論じ、春秋を作り、すなわち学者は今に至ってもこれを手本とする。

自獲麟以來四百有餘歲而諸侯相兼史記放絕

麟(きりん)を獲(え)てより以来、四百と余年、しこうして諸侯は相(あい)兼(か)ねあい、
史記は放(ほう)っておかれ絶えた。

今漢興海內一統明主賢君忠臣死義之士余為太史而弗論載

今、漢が興(おこ)り、海内が統一し、明主、賢君、忠臣、義(ぎ)に死した士は、わたしは太史と為って論載せず、

廢天下之史文余甚懼焉汝其念哉

天下の記録文を廃(すた)れさせ、わたしは甚(はなは)だ懼(おそ)れる。汝(なんじ)はそれ、念(ねん)じよ」と。

遷俯首流涕曰小子不敏請悉論先人所次舊聞弗敢闕

司馬遷は首を俯(うつむ)けて涕(なみだ)を流して曰く、「わたしは、敏(さと)くはありませんが、
ことごとく先人が旧聞を次(つ)いだところを論じ、敢(あ)えて欠(か)くことはしません」と。

卒三歲而遷為太史令紬史記石室金匱之書

亡くなって三年して司馬遷は漢太子令に為り、石室、金匱の書で史記を綴(つづ)った。

五年而當太初元年十一月甲子朔旦冬至

五年して太初元年十一月甲子朔旦冬至に当(あ)たり、

天歷始改建於明堂諸神受紀

天歴が改め始まり、明堂を建て、諸(もろもろ)の神が紀念(きねん)を受けた。

太史公曰先人有言自周公卒五百歲而有孔子

太史公司馬遷曰く、「先人に言(げん)が有る、『周公旦が亡くなってより五百年して孔子が有る。

孔子卒後至於今五百歲有能紹明世正易傳繼春秋本詩書禮樂之際

孔子が亡くなった後、今に至ること五百年、世を明らかにして継承し、易伝を正(ただ)し、春秋を継(つ)ぎ、詩書、礼楽を本(もと)にすることができる機会が有る』と。

意在斯乎意在斯乎小子何敢讓焉

意(い)はここに在(あ)るか。意(い)はここに在(あ)るか。わたしはどうして敢(あ)えて譲(ゆず)ろうか」と。

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