太伯避歷江蠻是適
太伯は李歴(太伯の末弟)を避(さ)けて、江蛮(地方名)はここに適(かな)い、
文武攸興古公王跡
周文王(姫昌)周武王(姫発)が悠然(ゆうぜん)と興(おこ)るは、古公王の業績(ぎょうせき)である。
闔廬弒僚賓服荊楚
呉王闔廬(姫光)は呉王僚(姫僚)をころし、荊、楚を賓服(ひんぷく 服従してあいさつに来ること)させ、
夫差克齊子胥鴟夷
呉王夫差(姫夫差)は斉に勝ち、伍子胥(伍員)は遺体を馬の皮でつくった酒の袋に入れて江に流され、
信嚭親越吳國既滅
呉太宰伯嚭を信じて越と親和(しんわ)し、呉国はまもなく滅(ほろ)んだ。
嘉伯之讓作吳世家第一
太伯の譲(自分が辞退して、人を先に立てること)を嘉(よみ)して、呉世家を作るのが第一。
申呂肖矣尚父側微
申、呂がおとろえて、尚父(太公望呂尚)は身分が低く、
卒歸西伯文武是師
とうとう西伯(姫昌)に帰属(きぞく)し、周文王(姫昌)周武王(姫発)はここに師(し)とし、
功冠群公繆權于幽
功(こう)は、ひそかに策をめぐらし、群公(多くの公者)に冠(かん)した。
番番黃髪爰饗營丘
番番(はは)と勇ましい黄髪(白髪)になり、ここに於いて(斉の)営丘(地名)を享受(きょうじゅ)した。
不背柯盟桓公以昌九合諸侯霸功顯彰
柯盟(斉桓公が魯と柯に会して盟約した)に背(そむ)かず、斉桓公姜小白は栄(さか)えるを以ってし、諸侯をたびたび会合させ、諸侯の旗頭(はたがしら)となって、功(こう)は顕彰(けんしょう)された。
田闞爭寵姜姓解亡嘉父之謀作齊太公世家第二
田氏と闞氏(監氏)が寵(ちょう)を争い、姜姓は解(と)かれ亡(ほろ)んだ。尚父の謀(はかりごと)を嘉(よみ)して、斉太公世家を作るのが第二。
太伯は李歴(太伯の末弟)を避(さ)けて、江蛮(地方名)はここに適(かな)い、
文武攸興古公王跡
周文王(姫昌)周武王(姫発)が悠然(ゆうぜん)と興(おこ)るは、古公王の業績(ぎょうせき)である。
闔廬弒僚賓服荊楚
呉王闔廬(姫光)は呉王僚(姫僚)をころし、荊、楚を賓服(ひんぷく 服従してあいさつに来ること)させ、
夫差克齊子胥鴟夷
呉王夫差(姫夫差)は斉に勝ち、伍子胥(伍員)は遺体を馬の皮でつくった酒の袋に入れて江に流され、
信嚭親越吳國既滅
呉太宰伯嚭を信じて越と親和(しんわ)し、呉国はまもなく滅(ほろ)んだ。
嘉伯之讓作吳世家第一
太伯の譲(自分が辞退して、人を先に立てること)を嘉(よみ)して、呉世家を作るのが第一。
申呂肖矣尚父側微
申、呂がおとろえて、尚父(太公望呂尚)は身分が低く、
卒歸西伯文武是師
とうとう西伯(姫昌)に帰属(きぞく)し、周文王(姫昌)周武王(姫発)はここに師(し)とし、
功冠群公繆權于幽
功(こう)は、ひそかに策をめぐらし、群公(多くの公者)に冠(かん)した。
番番黃髪爰饗營丘
番番(はは)と勇ましい黄髪(白髪)になり、ここに於いて(斉の)営丘(地名)を享受(きょうじゅ)した。
不背柯盟桓公以昌九合諸侯霸功顯彰
柯盟(斉桓公が魯と柯に会して盟約した)に背(そむ)かず、斉桓公姜小白は栄(さか)えるを以ってし、諸侯をたびたび会合させ、諸侯の旗頭(はたがしら)となって、功(こう)は顕彰(けんしょう)された。
田闞爭寵姜姓解亡嘉父之謀作齊太公世家第二
田氏と闞氏(監氏)が寵(ちょう)を争い、姜姓は解(と)かれ亡(ほろ)んだ。尚父の謀(はかりごと)を嘉(よみ)して、斉太公世家を作るのが第二。