諸呂為從謀弱京師而勃反經合於權
諸(もろもろ)の呂氏がほしいままに為り、京師(みやこ)を弱めることを謀(はか)り、しこうして、
絳侯周勃は一定不変の道理に反して、臨機応変に合わせた。
吳楚之兵亞夫駐於昌邑
呉、楚の戦いは、周亞夫(このとき漢大尉條侯周亞夫 絳侯周勃の子)が昌邑に駐屯し、
以戹齊趙而出委以梁作絳侯世家第二十七
斉、趙をはばむを以ってし、しこうして出して委(ゆだ)ねるは梁を以ってした。絳侯世家を作るのが第二十七。
七國叛逆蕃屏京師唯梁為捍
七国が叛逆し、京師(みやこ)に藩屏(はんぺい)するは、唯(ただ)梁のみがふせぎ守った。
偩愛矜功幾獲于禍
愛をたのみにして功をほこり、あやうく禍(わざわい)を獲(え)るところだった。
嘉其能距吳楚作梁孝王世家第二十八
その呉、楚をはばむことができたことを嘉(よみ)して、梁孝王世家を作るのが第二十八。
諸(もろもろ)の呂氏がほしいままに為り、京師(みやこ)を弱めることを謀(はか)り、しこうして、
絳侯周勃は一定不変の道理に反して、臨機応変に合わせた。
吳楚之兵亞夫駐於昌邑
呉、楚の戦いは、周亞夫(このとき漢大尉條侯周亞夫 絳侯周勃の子)が昌邑に駐屯し、
以戹齊趙而出委以梁作絳侯世家第二十七
斉、趙をはばむを以ってし、しこうして出して委(ゆだ)ねるは梁を以ってした。絳侯世家を作るのが第二十七。
七國叛逆蕃屏京師唯梁為捍
七国が叛逆し、京師(みやこ)に藩屏(はんぺい)するは、唯(ただ)梁のみがふせぎ守った。
偩愛矜功幾獲于禍
愛をたのみにして功をほこり、あやうく禍(わざわい)を獲(え)るところだった。
嘉其能距吳楚作梁孝王世家第二十八
その呉、楚をはばむことができたことを嘉(よみ)して、梁孝王世家を作るのが第二十八。