扁鵲言醫為方者宗守數精明後世(修)[循]序弗能易也而倉公可謂近之矣作扁鵲倉公列傳第四十五
扁鵲は医を言い、医術者の宗(おおもと)と為り、術を精明(せいめい くわしくあきらかなこと)に守った。後世に順序を修めても、替(か)えることはできないのである。そして倉公淳于意はこれに近いと謂うべきである。扁鵲倉公列伝を作るのが第四十五。
維仲之省厥濞王吳遭漢初定以填撫江淮之作吳王濞列傳第四十六
これ、劉仲(劉邦の兄)が省(はぶ)かれて、それ、劉濞(劉仲の子)が呉で王になり、漢の定まったばかりのときに遭(あ)って、江淮の間を鎮撫(ちんぶ)するを以ってした。呉王濞列伝を作るのが第四十六。
吳楚為亂宗屬唯嬰賢而喜士士鄉之率師抗山東滎陽作魏其武安列傳第四十七
呉楚が反乱したとき、宗属はただ竇嬰のみが士を喜び、士はこれに向かい、軍隊を率(ひき)いて山東の滎陽に抗戦(こうせん)した。魏其武安列伝を作るのが第四十七。
智足以應近世之變足用得人作韓長孺列傳第四十八
智(ち)は近世の変化に応ずるを以ってするに足(た)り、寛容(かんよう)は人を得て用いるに足(た)りた。韓長孺列伝を作るのが第四十八。
扁鵲は医を言い、医術者の宗(おおもと)と為り、術を精明(せいめい くわしくあきらかなこと)に守った。後世に順序を修めても、替(か)えることはできないのである。そして倉公淳于意はこれに近いと謂うべきである。扁鵲倉公列伝を作るのが第四十五。
維仲之省厥濞王吳遭漢初定以填撫江淮之作吳王濞列傳第四十六
これ、劉仲(劉邦の兄)が省(はぶ)かれて、それ、劉濞(劉仲の子)が呉で王になり、漢の定まったばかりのときに遭(あ)って、江淮の間を鎮撫(ちんぶ)するを以ってした。呉王濞列伝を作るのが第四十六。
吳楚為亂宗屬唯嬰賢而喜士士鄉之率師抗山東滎陽作魏其武安列傳第四十七
呉楚が反乱したとき、宗属はただ竇嬰のみが士を喜び、士はこれに向かい、軍隊を率(ひき)いて山東の滎陽に抗戦(こうせん)した。魏其武安列伝を作るのが第四十七。
智足以應近世之變足用得人作韓長孺列傳第四十八
智(ち)は近世の変化に応ずるを以ってするに足(た)り、寛容(かんよう)は人を得て用いるに足(た)りた。韓長孺列伝を作るのが第四十八。