太史公仍父子相續纂其職
太史公はすなわち父子が相(あい)つづいてその職を受継いだ。
曰於戲余維先人嘗掌斯事顯於唐虞
曰く、「ああ、わたしはこれ、先人が嘗(かつ)てその事をつかさどり、唐虞(陶唐(国号)の堯帝、有虞(国号)の舜帝)に於いて顕(あきら)かになり、
至于周復典之故司馬氏世主天官
周に至ってふたたびこれをつかさどり、故(ゆえ)に司馬氏は代々天官をつかさどり、
至於余乎欽念哉欽念哉
わたしに至るのだ、つつしんで念ずるかな、つつしんで念ずるかな」と。
罔羅天下放失舊聞王跡所興原始察終見盛觀衰
天下の放失した旧聞を網羅(もうら)し、王が興(おこ)ったところの跡(あと)は、始めをたずね、終わりを察し、盛(せい)を見て衰(すい)を観(み)て、
論考之行事略推三代錄秦漢上記軒轅
行事を論考し、三代(夏、殷、周)をおおまかに推(お)しはかり、秦、漢を記録し、上(うえ)は軒轅(黄帝)を記(しる)し、
下至于茲著十二本紀既科條之矣
下(した)はここに至り、十二の本紀を著(あらわ)し、既(すで)にこれを箇条(かじょう)にした。
并時異世年差不明作十表
時をならべ、世を異(こと)にしても、年の差(さ)は明らかではないので、十の表を作った。
禮樂損益律歷改易兵權山川鬼神天人之際承敝通變作八書
礼、楽の損益、律、歴の改易、兵権、山川鬼神、天と人の際(きわ)、
貨幣を承(うけたまわ)り、変に通じたことは八書に作られた。
二十八宿環北辰三十輻共一轂運行無窮
二十八宿は北辰をめぐり、三十本の車輪の輻(や)は一つの轂(こしき 車輪の軸を受けるまるい部分)を共(とも)にして、運行は窮(きわ)まることは無いが、
輔拂股肱之臣配焉忠信行道以奉主上作三十世家
輔弼(ほひつ 補佐の臣下)、股肱(君主のためにその手足となって仕える家来)の臣下が配(はい)され、忠信は道を行い、主上を奉(たてまつ)るを以ってするは、三十の世家に作られた。
太史公はすなわち父子が相(あい)つづいてその職を受継いだ。
曰於戲余維先人嘗掌斯事顯於唐虞
曰く、「ああ、わたしはこれ、先人が嘗(かつ)てその事をつかさどり、唐虞(陶唐(国号)の堯帝、有虞(国号)の舜帝)に於いて顕(あきら)かになり、
至于周復典之故司馬氏世主天官
周に至ってふたたびこれをつかさどり、故(ゆえ)に司馬氏は代々天官をつかさどり、
至於余乎欽念哉欽念哉
わたしに至るのだ、つつしんで念ずるかな、つつしんで念ずるかな」と。
罔羅天下放失舊聞王跡所興原始察終見盛觀衰
天下の放失した旧聞を網羅(もうら)し、王が興(おこ)ったところの跡(あと)は、始めをたずね、終わりを察し、盛(せい)を見て衰(すい)を観(み)て、
論考之行事略推三代錄秦漢上記軒轅
行事を論考し、三代(夏、殷、周)をおおまかに推(お)しはかり、秦、漢を記録し、上(うえ)は軒轅(黄帝)を記(しる)し、
下至于茲著十二本紀既科條之矣
下(した)はここに至り、十二の本紀を著(あらわ)し、既(すで)にこれを箇条(かじょう)にした。
并時異世年差不明作十表
時をならべ、世を異(こと)にしても、年の差(さ)は明らかではないので、十の表を作った。
禮樂損益律歷改易兵權山川鬼神天人之際承敝通變作八書
礼、楽の損益、律、歴の改易、兵権、山川鬼神、天と人の際(きわ)、
貨幣を承(うけたまわ)り、変に通じたことは八書に作られた。
二十八宿環北辰三十輻共一轂運行無窮
二十八宿は北辰をめぐり、三十本の車輪の輻(や)は一つの轂(こしき 車輪の軸を受けるまるい部分)を共(とも)にして、運行は窮(きわ)まることは無いが、
輔拂股肱之臣配焉忠信行道以奉主上作三十世家
輔弼(ほひつ 補佐の臣下)、股肱(君主のためにその手足となって仕える家来)の臣下が配(はい)され、忠信は道を行い、主上を奉(たてまつ)るを以ってするは、三十の世家に作られた。