至秦有天下悉內六國禮儀
秦が天下を有するに至り、ことごとく六国の礼儀をおさめ、
采擇其善雖不合聖制其尊君抑臣
その善を択(えら)び採(と)り、聖制に合わずと雖(いえど)も、その君を尊び臣を抑(おさ)え、
朝廷濟濟依古以來
朝廷は済済(せいせい)と盛んに、古(いにしえ)以来にしたがった。
至于高祖光有四海
高祖(劉邦)に至り、光は四海を有し、
叔孫通頗有所益減損大抵皆襲秦故
漢太常稷嗣君叔孫通は頗(すこぶ)る増益、減損するところを有して、大抵(たいてい)皆(みな)秦の故(ゆえ)を踏襲(とうしゅう)し、
自天子稱號下至佐僚及宮室官名少所變改
天子の称号より下(した)は佐僚および宮室、官名にいたるまで、改め変えたところは少なかった。
孝文即位有司議欲定儀禮孝文好道家之學
漢孝文帝劉恒が即位したとき、役人が議して儀礼を定めることを欲した。漢孝文帝劉恒は道家の学問を好んでおり、
以為繁禮飾貌無益於治躬化謂何耳故罷去之
礼を多くして容貌を飾(かざ)ることは、治(ち)に於いて無益(むえき)で、身をもって模範を示し感化して何かを謂(い)ってそれのみであると、故(ゆえ)にこれを止(や)めて去らせた。
孝景時御史大夫晁錯明於世務刑名數干諫孝景曰
漢孝景帝劉啓の時、漢御史大夫晁錯が世に於いて刑名(形名)に務(つと)めることを明らかにし、
たびたび漢孝景帝劉啓に諌(いさ)めて曰く、
諸侯藩輔臣子一例古今之制也
「諸侯の藩輔は臣子の一例で、古今の制度でありますが、
今大國專治異政不稟京師恐不可傳後
今、大国は治(ち)を専(もっぱ)らにして政治を異(こと)にし、京師(みやこ)に申し上げないので、(藩輔を)後(のち)に伝えることができないことを恐れます」と。
孝景用其計而六國畔逆以錯首名天子誅錯以解難
漢孝景帝劉啓はその計を用いたが、六国が叛逆(はんぎゃく)して、漢御史大夫晁錯の首(くび)を以って名目として、天子(漢孝景帝劉啓)は漢御史大夫晁錯を誅(ちゅう)して難(なん)を解(と)くを以ってした。
事在袁盎語中是後官者養交安祿而已莫敢復議
事は袁盎の話の中に在(あ)る。この後、官者は交わりを養い、禄(ろく)を安んじてそれのみで、
敢(あ)えて議を申し上げようとするものはいなかった。
秦が天下を有するに至り、ことごとく六国の礼儀をおさめ、
采擇其善雖不合聖制其尊君抑臣
その善を択(えら)び採(と)り、聖制に合わずと雖(いえど)も、その君を尊び臣を抑(おさ)え、
朝廷濟濟依古以來
朝廷は済済(せいせい)と盛んに、古(いにしえ)以来にしたがった。
至于高祖光有四海
高祖(劉邦)に至り、光は四海を有し、
叔孫通頗有所益減損大抵皆襲秦故
漢太常稷嗣君叔孫通は頗(すこぶ)る増益、減損するところを有して、大抵(たいてい)皆(みな)秦の故(ゆえ)を踏襲(とうしゅう)し、
自天子稱號下至佐僚及宮室官名少所變改
天子の称号より下(した)は佐僚および宮室、官名にいたるまで、改め変えたところは少なかった。
孝文即位有司議欲定儀禮孝文好道家之學
漢孝文帝劉恒が即位したとき、役人が議して儀礼を定めることを欲した。漢孝文帝劉恒は道家の学問を好んでおり、
以為繁禮飾貌無益於治躬化謂何耳故罷去之
礼を多くして容貌を飾(かざ)ることは、治(ち)に於いて無益(むえき)で、身をもって模範を示し感化して何かを謂(い)ってそれのみであると、故(ゆえ)にこれを止(や)めて去らせた。
孝景時御史大夫晁錯明於世務刑名數干諫孝景曰
漢孝景帝劉啓の時、漢御史大夫晁錯が世に於いて刑名(形名)に務(つと)めることを明らかにし、
たびたび漢孝景帝劉啓に諌(いさ)めて曰く、
諸侯藩輔臣子一例古今之制也
「諸侯の藩輔は臣子の一例で、古今の制度でありますが、
今大國專治異政不稟京師恐不可傳後
今、大国は治(ち)を専(もっぱ)らにして政治を異(こと)にし、京師(みやこ)に申し上げないので、(藩輔を)後(のち)に伝えることができないことを恐れます」と。
孝景用其計而六國畔逆以錯首名天子誅錯以解難
漢孝景帝劉啓はその計を用いたが、六国が叛逆(はんぎゃく)して、漢御史大夫晁錯の首(くび)を以って名目として、天子(漢孝景帝劉啓)は漢御史大夫晁錯を誅(ちゅう)して難(なん)を解(と)くを以ってした。
事在袁盎語中是後官者養交安祿而已莫敢復議
事は袁盎の話の中に在(あ)る。この後、官者は交わりを養い、禄(ろく)を安んじてそれのみで、
敢(あ)えて議を申し上げようとするものはいなかった。