今上即位招致儒術之士
今上(漢孝武帝劉徹)が即位すると、儒術の士を招致(しょうち)して、
令共定儀十餘年不就
共(とも)に儀を定めさせたが、十余年しても成就しなかった。
或言古者太平萬民和喜
或(あ)るものが言った、古(いにしえ)では太平で万民が和(わ)して喜び
瑞應辨至乃采風俗定制作
瑞応(めでたいことに応じて現れるもの)があまねく至り、そこで風俗と採(と)って定め制作した、と。
上聞之制詔御史曰蓋受命而王
上(漢孝武帝劉徹)はこれを聞きいれて、詔(みことのり)を御史に制して曰く、「思うに天命をさずかって王になり、
各有所由興殊路而同歸
各(おのおの)が由(よ)るところ有って興(おこ)り、路(みち)を殊(こと)にして帰着を同じにしたのは、
謂因民而作追俗為制也
民に因(よ)りて作り、俗(ぞく)を追って制をつくったことであると謂う。
議者咸稱太古百姓何望
議する者はあまねく太古(たいこ)を称(たた)えるが、百姓はどうして望むだろうか。
漢亦一家之事典法不傳謂子孫何
漢もまた一家の事、典法が伝わらなければ、子孫に何を謂うのだろうか。
化隆者閎博治淺者褊狹可不勉與
教化の盛んな者は広博で、治(ち)の浅い者は偏狭(へんきょう)である。勉(つと)めないべきだろうかな。」と。
乃以太初之元改正朔易服色封太山
すなわち、太初の元年を以って暦(こよみ)を改正し、服色を替(か)え、太山に封(祭祀名)をし、
定宗廟百官之儀以為典常垂之於後云
宗廟、百官の儀を定め、典常と為すを以ってこれを後(のち)に垂(た)れたのであった。
今上(漢孝武帝劉徹)が即位すると、儒術の士を招致(しょうち)して、
令共定儀十餘年不就
共(とも)に儀を定めさせたが、十余年しても成就しなかった。
或言古者太平萬民和喜
或(あ)るものが言った、古(いにしえ)では太平で万民が和(わ)して喜び
瑞應辨至乃采風俗定制作
瑞応(めでたいことに応じて現れるもの)があまねく至り、そこで風俗と採(と)って定め制作した、と。
上聞之制詔御史曰蓋受命而王
上(漢孝武帝劉徹)はこれを聞きいれて、詔(みことのり)を御史に制して曰く、「思うに天命をさずかって王になり、
各有所由興殊路而同歸
各(おのおの)が由(よ)るところ有って興(おこ)り、路(みち)を殊(こと)にして帰着を同じにしたのは、
謂因民而作追俗為制也
民に因(よ)りて作り、俗(ぞく)を追って制をつくったことであると謂う。
議者咸稱太古百姓何望
議する者はあまねく太古(たいこ)を称(たた)えるが、百姓はどうして望むだろうか。
漢亦一家之事典法不傳謂子孫何
漢もまた一家の事、典法が伝わらなければ、子孫に何を謂うのだろうか。
化隆者閎博治淺者褊狹可不勉與
教化の盛んな者は広博で、治(ち)の浅い者は偏狭(へんきょう)である。勉(つと)めないべきだろうかな。」と。
乃以太初之元改正朔易服色封太山
すなわち、太初の元年を以って暦(こよみ)を改正し、服色を替(か)え、太山に封(祭祀名)をし、
定宗廟百官之儀以為典常垂之於後云
宗廟、百官の儀を定め、典常と為すを以ってこれを後(のち)に垂(た)れたのであった。