夏桀殷紂手搏豺狼
夏桀王、殷紂王は豹(ひょう)、狼(おおかみ)を手でうち、
足追四馬勇非微也
足は四頭立て馬車に追いつき、勇ましさは少しでは非(あら)ざるなり。
百戰克勝諸侯懾服權非輕也
百戦して勝ち、諸侯はおそれて服し、権力は軽くは非(あら)ざるなり。
秦二世宿軍無用之地連兵於邊陲力非弱也
秦二世皇帝は無用の地に宿軍させて、辺陲(へんすい 国境)に兵を連(つら)ねさせ、力が弱かったのでは非(あら)ざるなり。
結怨匈奴絓禍於越勢非寡也
匈奴に怨(うら)みを結(むす)び、越に禍(わざわい)をとどめ、勢(いきお)いが少なかったのでは
非(あら)ざるなり。
及其威盡勢極閭巷之人為敵國
その威(い)が尽(つ)くされ勢いが極(きわ)まるに及んで、閭巷(むらざと)の人は敵国と為し、
咎生窮武之不知足甘得之心不息也
咎(とが)は武(ぶ)を窮(きわ)めて足(た)ることを知らないことより生(しょう)じ、
甘徳(徳を願う 得(とく)=徳(とく)?)の心が止まることはなかったのである。
高祖有天下三邊外畔
漢高祖(劉邦)が天下を有(ゆう)し、三方の辺境の外が叛(そむ)き、
大國之王雖稱蕃輔臣節未盡
大国の王は藩輔を称(とな)えると雖(いえど)も、臣節(臣下としての節度)は未(ま)だ尽(つ)くさなかった。
會高祖厭苦軍事,亦有蕭、
このとき、漢高祖(劉邦)は苦しい軍事を厭(いと)い、また蕭何、
張之謀故偃武一休息羈縻不備
張良の謀(はかりごと)を有(ゆう)し、故(ゆえ)に武(ぶ)をやめて一(いつ)に休息し、
羈(馬のおもがい)縻(牛の鼻につけるなわ)は備(そな)えなかった。
歷至孝文即位將軍陳武等議曰
めぐって漢孝文帝劉恒が即位するに至り、将軍の陳武(棘蒲侯柴武)らが議して曰く、
南越朝鮮自全秦時內屬為臣子
「南越、朝鮮は全秦時より内(うち)に臣子として属(ぞく)し、
後且擁兵阻阸選蠕觀望
後にまさに兵を阻阸(せまいこと)に擁(よう 集める)し、選蠕(せんぜん)とうごめいて望み観(み)ました。
高祖時天下新定人民小安未可復興兵
漢高祖劉邦の時、天下が新たに定まり、人民が少し安(やす)んじ、未(ま)だふたたび兵を興(おこ)すべきではありませんでした。
今陛下仁惠撫百姓恩澤加海內
今、陛下(漢孝文帝劉恒)は仁恵で百姓を撫(な)でやすんじさせ、恩沢は海内に加えられ、
宜及士民樂用征討逆黨以一封疆
宜(よろ)しく士民が用を楽しむに及んで、逆党を征討(せいとう)し、封疆(境界)を一(いつ)にするを以ってするべきです」と。
孝文曰朕能任衣冠念不到此
漢孝文帝劉恒曰く、「朕は衣冠(官吏)に任(まか)せることができ、これに到(いた)らないことを念(ねん)ずる。
會呂氏之亂功臣宗室共不羞恥
呂氏の乱に会して、功臣、宗室は共(とも)に恥(は)じず、
誤居正位常戰戰慄慄恐事之不終
誤(あやま)って正位に居(お)るものは、常に戦々慄慄(せんせんりつりつ)と事の終わらないことを恐れた。
且兵凶器雖克所願
まさに兵(武器)は凶器で、克(か)つは願うところと雖(いえど)も、
動亦秏病謂百姓遠方何
動くもまたむなしく病(や)み、百姓が遠方でどうすると謂(う)うのか?
又先帝知勞民不可煩故不以為意
また、先帝は民を労(ねぎ)らい煩(わずら)わすべきではないことを知り、故(ゆえ)意(い)を為すことを以ってせず。
朕豈自謂能今匈奴內侵
朕がどうしてみずからできると謂(い)おうか。今、匈奴は内(うち)に侵(おか)し、
軍吏無功邊民父子荷兵日久
軍吏は功が無く、辺民の父子は武器を荷(にな)う日が久しく、
朕常為動心傷痛無日忘之
朕は常に動心傷痛(心を動かし傷つき痛む)を為して、これを忘れる日は無い。
今未能銷距願且堅邊設候
今、未(ま)だ銷距(しょうきょ けづめ 武力を用いないたとえ)することはできないが、願わくは、
まさに辺境を堅(かた)くして侯(敵の情況をさぐる人)を設(もう)け、
結和通使休寧北陲為功多矣
和(わ)を結(むす)んで使者を通(かよ)わせ、北陲(北のはて)を休寧(きゅうねい 気を休める)させれば、功を為すは多いであろう。
且無議軍故百姓無內外之繇
まさに軍を議すること無かれ」と。故(ゆえ)に百姓は内外の繇(労役)が無くなり、
得息肩於田畝天下殷富
田畑に息肩(そっけん 荷をおろして休む)を得て、天下は富みさかえた。
粟至十餘錢鳴雞吠狗
粟(あわ)は十余銭に至り、鳴雞吠狗(鶏の鳴く声、犬の吠える声)、
煙火萬里可謂和樂者乎
煙火(飯をたくけむり)は万里にわたり、楽を和(わ)すると謂(い)うべきものか。
夏桀王、殷紂王は豹(ひょう)、狼(おおかみ)を手でうち、
足追四馬勇非微也
足は四頭立て馬車に追いつき、勇ましさは少しでは非(あら)ざるなり。
百戰克勝諸侯懾服權非輕也
百戦して勝ち、諸侯はおそれて服し、権力は軽くは非(あら)ざるなり。
秦二世宿軍無用之地連兵於邊陲力非弱也
秦二世皇帝は無用の地に宿軍させて、辺陲(へんすい 国境)に兵を連(つら)ねさせ、力が弱かったのでは非(あら)ざるなり。
結怨匈奴絓禍於越勢非寡也
匈奴に怨(うら)みを結(むす)び、越に禍(わざわい)をとどめ、勢(いきお)いが少なかったのでは
非(あら)ざるなり。
及其威盡勢極閭巷之人為敵國
その威(い)が尽(つ)くされ勢いが極(きわ)まるに及んで、閭巷(むらざと)の人は敵国と為し、
咎生窮武之不知足甘得之心不息也
咎(とが)は武(ぶ)を窮(きわ)めて足(た)ることを知らないことより生(しょう)じ、
甘徳(徳を願う 得(とく)=徳(とく)?)の心が止まることはなかったのである。
高祖有天下三邊外畔
漢高祖(劉邦)が天下を有(ゆう)し、三方の辺境の外が叛(そむ)き、
大國之王雖稱蕃輔臣節未盡
大国の王は藩輔を称(とな)えると雖(いえど)も、臣節(臣下としての節度)は未(ま)だ尽(つ)くさなかった。
會高祖厭苦軍事,亦有蕭、
このとき、漢高祖(劉邦)は苦しい軍事を厭(いと)い、また蕭何、
張之謀故偃武一休息羈縻不備
張良の謀(はかりごと)を有(ゆう)し、故(ゆえ)に武(ぶ)をやめて一(いつ)に休息し、
羈(馬のおもがい)縻(牛の鼻につけるなわ)は備(そな)えなかった。
歷至孝文即位將軍陳武等議曰
めぐって漢孝文帝劉恒が即位するに至り、将軍の陳武(棘蒲侯柴武)らが議して曰く、
南越朝鮮自全秦時內屬為臣子
「南越、朝鮮は全秦時より内(うち)に臣子として属(ぞく)し、
後且擁兵阻阸選蠕觀望
後にまさに兵を阻阸(せまいこと)に擁(よう 集める)し、選蠕(せんぜん)とうごめいて望み観(み)ました。
高祖時天下新定人民小安未可復興兵
漢高祖劉邦の時、天下が新たに定まり、人民が少し安(やす)んじ、未(ま)だふたたび兵を興(おこ)すべきではありませんでした。
今陛下仁惠撫百姓恩澤加海內
今、陛下(漢孝文帝劉恒)は仁恵で百姓を撫(な)でやすんじさせ、恩沢は海内に加えられ、
宜及士民樂用征討逆黨以一封疆
宜(よろ)しく士民が用を楽しむに及んで、逆党を征討(せいとう)し、封疆(境界)を一(いつ)にするを以ってするべきです」と。
孝文曰朕能任衣冠念不到此
漢孝文帝劉恒曰く、「朕は衣冠(官吏)に任(まか)せることができ、これに到(いた)らないことを念(ねん)ずる。
會呂氏之亂功臣宗室共不羞恥
呂氏の乱に会して、功臣、宗室は共(とも)に恥(は)じず、
誤居正位常戰戰慄慄恐事之不終
誤(あやま)って正位に居(お)るものは、常に戦々慄慄(せんせんりつりつ)と事の終わらないことを恐れた。
且兵凶器雖克所願
まさに兵(武器)は凶器で、克(か)つは願うところと雖(いえど)も、
動亦秏病謂百姓遠方何
動くもまたむなしく病(や)み、百姓が遠方でどうすると謂(う)うのか?
又先帝知勞民不可煩故不以為意
また、先帝は民を労(ねぎ)らい煩(わずら)わすべきではないことを知り、故(ゆえ)意(い)を為すことを以ってせず。
朕豈自謂能今匈奴內侵
朕がどうしてみずからできると謂(い)おうか。今、匈奴は内(うち)に侵(おか)し、
軍吏無功邊民父子荷兵日久
軍吏は功が無く、辺民の父子は武器を荷(にな)う日が久しく、
朕常為動心傷痛無日忘之
朕は常に動心傷痛(心を動かし傷つき痛む)を為して、これを忘れる日は無い。
今未能銷距願且堅邊設候
今、未(ま)だ銷距(しょうきょ けづめ 武力を用いないたとえ)することはできないが、願わくは、
まさに辺境を堅(かた)くして侯(敵の情況をさぐる人)を設(もう)け、
結和通使休寧北陲為功多矣
和(わ)を結(むす)んで使者を通(かよ)わせ、北陲(北のはて)を休寧(きゅうねい 気を休める)させれば、功を為すは多いであろう。
且無議軍故百姓無內外之繇
まさに軍を議すること無かれ」と。故(ゆえ)に百姓は内外の繇(労役)が無くなり、
得息肩於田畝天下殷富
田畑に息肩(そっけん 荷をおろして休む)を得て、天下は富みさかえた。
粟至十餘錢鳴雞吠狗
粟(あわ)は十余銭に至り、鳴雞吠狗(鶏の鳴く声、犬の吠える声)、
煙火萬里可謂和樂者乎
煙火(飯をたくけむり)は万里にわたり、楽を和(わ)すると謂(い)うべきものか。