禹遵之後十四世至帝孔甲淫好神神瀆二龍去之
夏禹王はこれに遵(まもりしたがう)じた。十四世後、夏帝孔甲に至ると、徳を淫(みだ)し神(
鬼神)を好み、神(鬼神)は瀆(むさぼる)して、二匹の龍がこれを去った。
其後三世湯伐桀欲遷夏社不可作夏社
その三世後、殷湯王が夏帝桀を征伐(せいばつ)し、夏社を遷(うつ)すことを欲したが、できず、夏社を作った。
後八世至帝太戊有桑谷生於廷一暮大拱懼
八世後、殷帝太戊に至ると、桑谷が廷(にわ)に生(は)え、一暮(一晩)で大いに拱(両腕でかかえるほどの太さ)になり、懼(おそ)れたことが有った。
伊陟曰妖不勝太戊修桑谷死
伊陟曰く、「妖怪(ようかい)は徳には勝てません」と。殷帝太戊が徳を修めると、桑谷は死んだ。
伊陟贊巫咸巫咸之興自此始
伊陟は巫咸を賛(みちびく)し、巫咸の興(盛んにする)はこれより始まった。
後十四世帝武丁得傅說為相殷復興焉稱高宗
十四世後、殷帝武丁が傅説を得て相に為さしめ、殷はふたたび興(盛んにする)し、高宗と称(たた)えた。
有雉登鼎耳雊武丁懼
雉(きじ)が鼎(かなえ)の耳(みみ)に登(とまる)って雊(鳴く)し、殷帝武丁が懼(おそ)れたことが有った。
祖己曰修武丁從之位以永寧
祖己曰く、「徳を修めよ」と。殷帝武丁はこれに従い、位は永(なが)く安寧(あんねい)を以ってした。
後五世帝武乙慢神而震死
後世後、殷帝武乙が神(天神)を慢(あなどる)し、震(かみなり)にうたれて死んだ。
後三世帝紂淫亂武王伐之
三世後、殷帝紂は淫乱(いんらん)で、周武王がこれを征伐した。
由此觀之始未嘗不肅祗後稍怠慢也
これ由(よ)りこれを観(み)るに、始めは未(いま)だ嘗(かつ)て肅祗(しゅくし つつしむ)しないことはなく、後は稍(次第に)と怠慢(たいまん)になっていくのである。
夏禹王はこれに遵(まもりしたがう)じた。十四世後、夏帝孔甲に至ると、徳を淫(みだ)し神(
鬼神)を好み、神(鬼神)は瀆(むさぼる)して、二匹の龍がこれを去った。
其後三世湯伐桀欲遷夏社不可作夏社
その三世後、殷湯王が夏帝桀を征伐(せいばつ)し、夏社を遷(うつ)すことを欲したが、できず、夏社を作った。
後八世至帝太戊有桑谷生於廷一暮大拱懼
八世後、殷帝太戊に至ると、桑谷が廷(にわ)に生(は)え、一暮(一晩)で大いに拱(両腕でかかえるほどの太さ)になり、懼(おそ)れたことが有った。
伊陟曰妖不勝太戊修桑谷死
伊陟曰く、「妖怪(ようかい)は徳には勝てません」と。殷帝太戊が徳を修めると、桑谷は死んだ。
伊陟贊巫咸巫咸之興自此始
伊陟は巫咸を賛(みちびく)し、巫咸の興(盛んにする)はこれより始まった。
後十四世帝武丁得傅說為相殷復興焉稱高宗
十四世後、殷帝武丁が傅説を得て相に為さしめ、殷はふたたび興(盛んにする)し、高宗と称(たた)えた。
有雉登鼎耳雊武丁懼
雉(きじ)が鼎(かなえ)の耳(みみ)に登(とまる)って雊(鳴く)し、殷帝武丁が懼(おそ)れたことが有った。
祖己曰修武丁從之位以永寧
祖己曰く、「徳を修めよ」と。殷帝武丁はこれに従い、位は永(なが)く安寧(あんねい)を以ってした。
後五世帝武乙慢神而震死
後世後、殷帝武乙が神(天神)を慢(あなどる)し、震(かみなり)にうたれて死んだ。
後三世帝紂淫亂武王伐之
三世後、殷帝紂は淫乱(いんらん)で、周武王がこれを征伐した。
由此觀之始未嘗不肅祗後稍怠慢也
これ由(よ)りこれを観(み)るに、始めは未(いま)だ嘗(かつ)て肅祗(しゅくし つつしむ)しないことはなく、後は稍(次第に)と怠慢(たいまん)になっていくのである。