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Channel: 倭人伝を解く
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自是之後用事者爭言水利

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自是之後用事者爭言水利

これよりの後、事を用いる者は争って水利を言った。

朔方西河河西酒泉皆引河及川谷以溉田

朔方、西河、河西、酒泉は皆(みな)河及び川谷を引いて溉田(田を灌漑する)を以ってした。

而關中輔渠靈軹引堵水汝南九江引淮東海引鉅定

しこうして関中は渠(ほりわり)を輔(よりどころとする)し、靈軹は堵水を引き、汝南、九江は淮を引き、東海は鉅定を引き、

泰山下引汶水皆穿渠為溉田各萬餘頃

泰山下は汶水は引き、皆(みな)渠(ほりわり)を穿(うが)ち溉田(田を灌漑する)を為し、各(おのおの)は一万余頃(頃は面積の単位)であった。

佗小渠披山通道者不可勝言然其著者在宣房

他の小さい渠(ほりわり)の山を披(切る)して道を通すものは、すべて言うことができない。然(しか)るにその著(いちじる)しいものが宣房に在(あ)る。

太史公曰余南登廬山觀禹疏九江遂至于會稽太湟上姑蘇望五湖

太史公曰く、「余(わたし)は南に廬山に登り、禹が九江を疏(わける)したのを観(み)て、遂(つい)に会稽の太湟に至り、姑蘇に上(のぼ)り、五湖を望み、

東闚洛汭大邳迎河行淮泗濟漯洛渠

東に洛汭、大邳、迎河に闚(のぞむ)し、、淮、泗、済、漯、洛の渠(ほりわり)に行った。

西瞻蜀之岷山及離碓北自龍門至于朔方曰

西に蜀の岷山および離碓を瞻(あおぎみる)し、北に龍門より朔方に至った。曰く、

甚哉水之為利害也

『甚(はなは)だかな、水の利害を為すは』と。

余從負薪塞宣房悲瓠子之詩而作河渠書

余(わたし)は薪(まき)を負(背負う)って宣房を塞(ふさ)ぐに従(したが)い、 瓠子の詩を悲しみて河渠書を作った」と。

今日で史記 河渠書は終わりです。明日からは史記 平準書に入ります。

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