至孝文時莢錢益多輕乃更鑄四銖錢
漢孝文帝劉恒の時に至り、莢銭(値打ちのない銭 莢(きょう)=軽(きょう)?))が益々多くなり、軽(値打ちがない)くなった。つまり更(いよいよ ますます)に四銖銭(銖は一両の二十四分の一の重さ)を鋳(い)て、
其文為半兩令民縱得自鑄錢
その文(文字)は「半両」と為し、民に令して縱(勝手きままに)に自ら銭を鋳(い)ることを得さしめたのである。
故吳諸侯也以即山鑄錢
故(ゆえ)に呉の諸侯であり、山を削(けず)って(即=削? あるいは蝕?)銭を鋳(い)るを以ってし、
富埒天子其後卒以叛逆
富(とみ)は天子に埒(ひとしい)しくなり、その後、とうとう反逆(はんぎゃく)するを以ってした。
漢孝文帝劉恒の時に至り、莢銭(値打ちのない銭 莢(きょう)=軽(きょう)?))が益々多くなり、軽(値打ちがない)くなった。つまり更(いよいよ ますます)に四銖銭(銖は一両の二十四分の一の重さ)を鋳(い)て、
其文為半兩令民縱得自鑄錢
その文(文字)は「半両」と為し、民に令して縱(勝手きままに)に自ら銭を鋳(い)ることを得さしめたのである。
故吳諸侯也以即山鑄錢
故(ゆえ)に呉の諸侯であり、山を削(けず)って(即=削? あるいは蝕?)銭を鋳(い)るを以ってし、
富埒天子其後卒以叛逆
富(とみ)は天子に埒(ひとしい)しくなり、その後、とうとう反逆(はんぎゃく)するを以ってした。