海闊千餘里
海闊千餘里名瀚海至一支國 海は闊(広くする)して一千余里(一里150m換算で約150厖召蝓|録泙猟樟イ瞭麈椶ら三倍になります)、名は瀚海といい、一支(=壱岐)国に至る。 又度一海千餘里名未盧國 また一海を渡ること一千余里(一里150m換算で約150厖召蝓|録泙猟樟イ瞭麈椶ら三倍になります)、名は未盧国(おそらく糸島半島の先端にあった国名?)、 又東南陸行五百里至伊都國...
View Article其官有伊支馬
其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往鞮 その官には伊支馬が有り、次が曰く、彌馬獲支、次が曰く、奴往鞮と。 民種禾稻籥麻蠶桑織績 民は禾、稲、籥麻(紵麻?)を種(まく)し、蚕桑して織績する。 有姜桂橘椒蘇出雉真珠青玉 姜、桂、橘、椒、蘇が有り、雉(=碧雉と書けてキジ? 黒(ヘイ)=碧(ヘキ)?)、真珠、青玉を出だす。 有獸如牛名山鼠又有大蛇吞此獸 獣がいて、狖(イタチ...
View Article蛇皮堅不可斫其上有孔
蛇皮堅不可斫其上有孔 蛇の皮は堅く、斫(きる)することができない。その頬(ほお上(ショウ)=頬(キョウ)?)には孔(あな)が有り(ピット器官?)、 乍開乍閉時或有光射之中蛇則死矣 開けたり閉じたりして、ときどき或いは光を有し、この中を射ると蛇は則ち死ぬ。(おそらくハブ?...
View Article富貴者以錦繡雜采為帽
富貴者以錦繡雜采為帽似中國胡公頭 富貴者は錦繡雑彩を以て帽(ぼうし)をつくり、中国の胡公頭に似る。 食飲用籩豆其死有棺無槨封土作塚 飲食には籩豆(おそらく浅くて平たい大皿と蓋つきの器 籩(ヘン)=盤(ハン)?)を用いる。その死には棺が有って槨が無く、土を封(土を盛る)じて塚を作る。 人性皆嗜酒俗不知正歲多壽考多至八九十或至百歲...
View Article漢靈帝光和中
漢靈帝光和中倭國亂相攻伐歷年 漢霊帝光和中、倭国は乱れ、相(あい)攻伐すること歴年、 乃共立一女子卑彌呼為王 そこで、一人の女子卑弥呼を共立して王にした。 彌呼無夫婿挾鬼道能惑眾故國人立之 弥呼には夫婿が無く、鬼道を経(おさめる 挾(キョウ)=経(キョウ)?)し、巫術(まじない 惑(フオ)=巫(フ)? 衆(シュウ)=術(シュー)?)ができ、故に国人(政治を司る人々)がこれを立てた。...
View Article所處宮室
所處宮室常有兵守衛 処する所は宮室で、常に兵がいて守衛する。 至魏景初三年公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏景初三年に至り、公孫淵の誅の後、卑弥呼は使者を遣わし朝貢することを始めた。 魏以為親魏王假金印紫綬 魏は魏王に親しむと為すを以て、金印紫綬を叙(位階、官職をさずける 仮(シア)=叙(シュイ)?)した。 正始中卑彌呼死更立男王國中不服更相誅殺...
View Article晉安帝時
晉安帝時有倭王贊贊死立弟彌彌死立子濟 晋安帝の時、倭王賛がいた。賛が死に、弟の彌を立てた。彌が死に子の済を立てた。 濟死立子興興死立弟武 済が死に子の興を立てた。興が死に、弟の武を立てた。 齊建元中除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍 斉建元中、武を持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に叙した。 高祖即位進武號征東將軍 高祖が即位し、武を進めて征東将軍と号した。
View Article其南有侏儒國人長三四尺
其南有侏儒國人長三四尺 その南には侏儒国が有って、人の身長は三、四尺(一m前後)である。 又南齒國裸國去倭四千餘里船行可一年至 また南には黒歯国(桜島?)、裸国(鹿児島市?)で、倭を去ること四千余里(一里150m換算で約600厖召蝓法∩ス圓念貲で至ることができる。 又西南萬里有海人身眼白裸而醜 また西南一万里(一里150m換算で約1500辧_縄辺り?)に海獣(海のけもの...
View Article広開土王碑 碑文訳 始め
惟昔始祖鄒牟王之創基也 惟(これ)、昔の始祖は鄒牟王(チュモン王 =東明)の創基である。 出自北夫餘天帝之子母河伯女郎 出自(出身地)は北夫余(ピョンヤン?の北)で、天帝の子で、母は河伯の女郎(おそらくオオハクチョウ?)で、 剖卵降世生而有聖□□□□□命駕 卵を孵(卵をかえす 剖(ホウ)=孵(フー)?)し、世に降ろした。生まれるとともに聖徳が有り・・・命駕(奔出?)した。
View Article巡幸南下路
巡幸南下路 巡行(幸(コウ)=行(コウ)? めぐり行く)し路(みち)を南下した。 由夫餘奄利大水 夫余(ピョンヤン?)の奄利大水(=淹滯水(大同江(テドンガン)? 淹(エン→タン)=大(タイ)? 滞(タイ)=同(トウ)? 梁書高句麗伝より))を経由するに、 王臨津言曰 王(チュモン)は津(渡し場)に臨んで言った、曰く、
View Article我是皇天之子母河伯女郎
我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王 「我は是(これ)、皇天の子で母は河伯女郎(オオハクチョウ?)の鄒牟王(チュモン)である。 爲我連葭浮龜 我の為に鮫(サメ おそらくチョウザメ?=鰉(コウ) 葭(チア)=鮫(チアオ)?)を連ね、縦(たて 亀(チュン)=縦(ツォン)?)に浮かべよ」と。 應聲即爲連葭浮龜 声に応じて即ち鮫(サメ おそらくチョウザメ?=鰉(コウ) 葭(チア)=鮫(チアオ)?)を連ね縦(たて...
View Article不樂世位
不樂世位 世位(天子の地位)を号(しるし 楽(ゴウ)=号(ゴウ)?)しておらず、 因遣黄龍來下迎王 因りて皇鶴(=大きい鶴の意味でタンチョウ?山海経より 黄(コウ)=皇(コウ)? 龍(ボウ)=鶴(ホー)?)を遣わして、来下させ王に迎えさせた。 王於忽本東岡 忽本東岡に降(おりる 王(オウ)=降(コウ)?)りると、 黄龍負昇天顧命 黄龍(タンチョウ?)は舞(舞をまう...
View Article世子儒留王以道興治
世子儒留王以道興治 世子(世継ぎの子)の儒留王は道(道理)を以て治を興(おこ)した。 大朱留王紹承基業 大朱留王は基業を紹承(受け継ぐ)した。 還至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王 後(のち 還(ホワン)=後(ホウ)?)十七世孫(十七代後の子孫)の国岡上広開土境平安好太王は、 二九登祚號爲永樂太王 天祚(神から与えられた幸いまたは天寿 天(テン)=登(トウ)?)を持久(長く持ちこたえること...
View Article恩澤洽于皇天
恩澤洽于皇天 恩沢(めぐみ)は昊天(大空 皇天(コウテン)=昊天(コウテン)?)に洽(すみずみまで行きわたる)し、 威武□被四海 威武は振(ふるう □の字は振の字に見えるような気がします)るわれて四方(天下の国々 海(ハイ)=方(ホウ)?)を被(おお)い、 掃除不□庶寧其業 掃除(=よごれをはらう)してその業を処寧(中止してやすんじる 庶(ショ)=処(ショ)?)する遑(いとま...
View Article國富民殷
國富民殷 国は富み、民は殷(豊かな)になり、 五穀豐熟 五穀は豊かに熟し、 昊天不 鶴鳥(つる 昊(カウ)=鶴(カク)? 天(ティエン)=鳥(テウ)?)は舞(まう 不(ブ)=舞(ブ)?)をまった。
View Article弔卅有九宴駕棄國
弔卅有九宴駕棄國 悠久(永久 有(ユウ)=悠(ユウ)? 九(キュウ)=久(キュウ)?)の晏駕(崩御 宴(エン)=晏(エン)?)を弔死(死をとむらう 卅(ソウ)=死(スー)?)して帰国(国へ帰る 棄(キ)=帰(キ)?)し、(鴨緑江の近くの集安市は朱蒙(東明=鄒牟)王の生地?) 以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵 甲寅年九月廿九日乙酉を以て山陵に遷就(移りおもむく)する。 於是立碑銘記勲績以示後世焉...
View Article其詞曰永楽五年歳在乙未
其詞曰永楽五年歳在乙未 その詞(ことば)曰く、永楽五年歳は乙未に在り、 王以碑麗不歸□人躬率往討過富山 王は碑麗を以て□人に帰(服す)さず、躬(みずから)率いて討ちに往き、富山を過(通る)ぎた。
View Article負山至鹽水上
負山至鹽水上破其三部洛六七百營牛馬羣 負山は塩水上に至り、その三つの部落六、七百営、牛、馬の群(むれ)、 羊不可稱數 羊はすべて数えあげることができないほどを、破った。 於是旋駕因過襄平道東來□城力城北豐王備□遊觀土境田□而還 ここに於いて、旋駕(車馬に乗ってめぐる)するに、襄平道を因過(経由)し、來□城、力城、北豐、に到(いたる...
View Article以六年丙申
以六年丙申王躬率水軍討伐殘國軍至窠 六年丙申を以て、王は躬(みずから)水軍(おそらく洛東江(ナクトン川)を下ったのだと思います 其の頃の高句麗は忠州辺り? 宋書高句麗伝より 洛東江(ナクトン川)は同音で遼東江とも書けます。洛(ラク)=遼(リョウ)?)を率いて、残国軍(釜山国軍?)を討伐しに窠に至った。 南攻取寧八城臼模盧城各模盧城幹氐利城□□城閣□城牟盧城□沙城古舍蔦城阿旦城古利城...
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